じじぃの「人の生きざま_619_村田英雄(歌手)」

村田英雄 王将 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1mhyy-6ZWxg
【王将】演歌歌手 村田英雄を生涯苦しめた病気とは?【壮絶な闘病生活】 LAUGHY
戦後の日本歌謡を支えてきた大御所演歌歌手の村田英雄さん。
彼は2002年に73歳でこの世を去りました。そんな彼を悩ませ続けた病気、糖尿病。彼とこの病気についてまとめました。
生年月日 1929年1月17日〜2002年6月13日)
出身地  佐賀県東松浦郡相知町(現 唐津市
本名 梶山 勇
血液型 AB型 愛称 ムッチー
代表曲 「人生劇場」、「王将」
http://laughy.jp/1429080070632141392
『あの世心得。』 永六輔/著 文春ネスコ 2003年発行
病と闘う覚悟 村田英雄(歌手) (一部抜粋しています)
NHKの専属浪曲師としてラジオで活躍していた村田を、歌手にしたいと言い出したのは作曲家・古賀政男だった。村田の浪曲をラジオで聴いた古賀は、「これはいける」と称賛。自宅でレッスンを受けるように勧め、ほどなくデビューさせた。
1年前にデビューしていた三波春夫とは何かにつけて比較されたが、品行方正でタバコも吸わない南とは対照的に、村田は「飲む、打つ、買う」の放蕩生活。『収入の3分の2は色事と賭け事に消えた」といわれる。
本人も包み隠さず「女には3億円くらいはつぎ込んだ」と公言。また、中山競馬場で700万円をすって、オケラ街道を歩いて帰ったこともある。
酒は歌手になってから本格的に飲み始めたが、浴びるほど飲む酒豪となった。73年に糖尿病で入院するものの生活を改めず、96(平成8)年に合併症で右足腰下を切断。2000年には左足も切断することとなったが、後悔の言葉は口にしなかった。
1929年(昭和4)年、佐賀県に生まれる。父親は浪曲師で母親は曲師。4歳のときから両親に浪曲を仕込まれ、7歳のときに「父帰る」などの文芸浪曲で名高かった酒井雲に師事。8歳のとき上京して歌舞伎座にも立った。
      ・
戦後の51年に、51年に、ひと花咲かせようと、妻を田舎に置いたまま状況。いくつもの浪曲コンクールで優勝した。57年、伴奏にギターやアコーデオンを取り入れて注目される。歌手への誘いがあったのはこの頃だった。
80年代、突如「ムッチー、ブーム」が沸き上がり、若者に人気を博したことがある。きっかけは、ビートたけしがラジオの深夜番組で紹介した、村田ネタのジョークだった。
「村田先生が飲み屋に行って、俺のボルトをくれといった。ボルトですかと聞くと、これだから素人は困ると嘆いた」、「ベートーベンは俺の曲を作ってくれたと言うので見ると、そこには交響曲『英雄』と書いてあった」などというものだが、村田は笑って抗議しなかった。ビートたけしは「このジョークは明るい三波春夫ではだめ。苦虫を噛み潰したような村田先生じゃなくちゃ」と「解説」している。