じじぃの「人の生きざま_736_船村・徹(作曲家・歌手)」

春日八郎/別れの一本杉 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=g6L_T4JnTUM
船村徹

【訃報】作曲家の船村徹さんが死去、84歳 2017年2月17日 日テレNEWS24
ヒット曲「王将」「兄弟船」などで知られる作曲家の船村徹さんが16日、亡くなったことが、分かった。84歳。2016年5月に心臓の手術を受け、体調が心配されていた。
http://www.news24.jp/articles/2017/02/17/08354402.html
文藝春秋 2017年4月号
蓋棺録 「船村徹 (一部抜粋しています)
作曲家・船村徹(本名・福田博郎)は哀愁に満ちた曲で日本人の故郷を謳い上げた。
お蔵入りになっていた『泣けたっけ』を、人気歌手の春日八郎に歌わせる話が持ち上がつたのは、1955(昭和30)年だった。題名は変えて『別れの一本杉』として発売すると空前の大ヒットとなり、船村はいちやく人気作曲家として注目される。
32年栃木県の船生村(現・塩谷町)に生まれた。地主で獣医の資格をもつ父は3回結婚したが、船村は3番目の妻の末っ子。旧制今市中学(原・今市高校)時代には、トランペットを吹き、ギターを弾いていた。
作曲に憧れ、新制となった今市高校を2年で中退し、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学する。入試のピアノ課程曲はほとんど弾けなかったが、試験管に「弾けるようになるため入学したいんです」といって呆られる。
流しやキャバレーでアルバイトをしながら、学校にもときどき顔を出したが、最大の収穫は後に作詞家になる高野公男に出会ったことだった。同じく田舎育ちで、「もうすぐ俺たちの時代になる」と酒を飲んでは気勢をあげた。
2人で組んだ最初のヒット曲は『ご機嫌さんよ達者かね』。デビュー間もない三橋美智也が歌ってヒットして、これが同年の『別れの一本杉』につながった。ところが高野は結核が悪化して、翌年には亡くなってしまう。
高野を結核から救えなかったことが悔やまれ、しばらく酒浸りの生活が続いた。金だけは入り始めたので、夜中に熱海までタクシーを飛ばし、芸者をあげてのどんちゃん騒ぎを繰り返す。「気がつくと、レコード会社からの前借りが50曲分になっていた」。
しかし、そんな生活のなかでも、美空ひばりの『波止場だよ、お父つぁん』、島倉千代子の『東京だョおっ母さん』などの名曲が生まれた。酒浸りと借金まみれの中で船村は歌謡界をリードしていた。
61年の『王将』も村田英雄が歌って、当時、150万枚という大ヒットとなる。レコーディングのさい村田は、「うまれ浪速のやおやばし」と歌って作詞の西条八十が苦笑いした。船村が「大阪は橋が多いから八百八橋なんだよ」と説明すると、村田は「そうですか」と屈託がなかった。
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名声は高まり伝説の作曲家となってからも、ギターを抱え老人ホームや刑務所を「演歌巡礼」して歩いた。また、地方で活躍する歌手への援助を惜しまなかった。そして若き日の友情を忘れず、高野の供養を続けた。