じじぃの「人の死にざま_1699_金子・直吉(実業家)」

金子直吉

金子直吉 鈴木商店記念館
鈴木商店に入る前の10年間の丁稚奉公時代に奉公先を転々としたが高知市農人町の傍士久万次質店で落ち着き働く傍ら、質草の本を貪り読み、ありとあらゆる膨大な知識を身につける。
鈴木商店の入店後の鈴木岩次郎が没した明治27(1894)年、よね未亡人を助け柳田富士松とともに番頭として実質の経営にあたるようになり、樟脳事業を担当するも明治33(1900)年には台湾樟脳の販売権の65%を得るまでになり、直吉は国内外に事業を展開し、鈴木商店の大躍進を見たのである。
http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/person/cat9/
金子直吉 コトバンク より
金子 直吉(かねこ なおきち、1866 - 1944)
大正期における代表的な創業者的企業家。 1886年神戸の砂糖商鈴木商店の番頭となり、後藤新平ら政治家と結んで台湾の開発を機に鈴木商店を大総合商社に成長させ、一時は三井、三菱と並んで天下を3分する勢いを示した。

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『数学嫌いな人のための数学―数学原論 小室直樹/著 東洋経済新報社 2001年発行
社会主義へと後退する日本の資本主義 (一部抜粋しています)
江戸中期以降には、日本における前期的資本は大いに進展し、「資本主義」のための準備がなされたといわれている。最近の研究によると、生活水準も向上し人口も増えた。そして、驚くべきことに複式構造をもった帳簿をも生み出すに至った。所有と経営の分離も、すでに論じたように、大商家では確実に進んでいた。
このように、目的合理性の進歩には、目を見張るものがあった。それでいて、所有権の形態は、資本主義とは逆方向へと向かっていたのであった。
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欧米では、同族のなかの誰か1人が経営を引き継いでゆくという意思が強い。ゆえに、この1人が企業の資産を引き継ぎ、自らの意思で経営も行ってゆく。所有は所有者の全包括的・絶対的支配であるという資本主義の原則が確立しているからである。ゆえに、所有と経営の分離ということは、あまり進まなかった。
これに対し日本では、所有に関する資本主義の原則は確立されなかった。ゆえに、所有者といえども、企業資産という所有物を、自由に使用、収益、処分をしてよいものだとは思っていない。企業は、みんなのものであり、そのなかで有能な人が経営をするという考え方に行き着いた。
ゆえに、日本の江戸期の商家では、名目上家督を相続する当主には、炯々能力は必ずしも必要とされなかった。経営は番頭たちに委任された。所有と経営は分離され、番頭経営が発達した。番頭経営は、放漫経営の防止、家産の分散の抑止に大いに貢献をしたのであり、江戸時代の商家が数世代にわたって永続し得た1つの大きな要因となった。
支配人、番頭たちに経営委任が行われる場合、多くの商家では同時に、「家訓」「家憲」「店掟」「店禁」などが制定され、家産維持・運用、相続法、帳簿の付け方、奉公人の労務管理、取扱商品などのルールが決められた。この番頭経営の基本理念となったのは、新儀停止・祖法墨守であった。つまり、理念は徹頭徹尾、伝統主義(Traditionalismus、Traditionalism)であった。
例外的な経営者もいた。鈴木商店という戦前の大商社をご存じだろうか? 戦前に金子直吉(1866 - 1944年)という類い稀なる才覚を発揮した番頭経営で、一躍急成長した会社である。創業者の鈴木岩次郎の未亡人よねの下で、彼は徹底的に新事業を開拓し、世界有数の大商社へと育て上げた。全盛期には、スエズ運河を通過する全船腹の1割が鈴木のものと言われるほど、鈴木商店は単に日本のみならず世界でも屈指の大商社であった。
彼は進取性と合理性秦に富んでおり、その意味で日本人離れした破天荒な経営者であった。残念なことに、拡張主義が祟って1928年の金融恐慌に際して、倒産へと至るが、金子が開拓した新事業は、今日でも著名な多くの鈴木系企業に引き継がれている。
まあ、このような特異な例外はあるとしても、上に述べたように、番頭経営は、いくつかの点において、目的合理的な産業経営を志向し、所有と経営を分離したことは括目(かつもく)に値する。それでいて、その理念は、伝統主義に向けられたものである。いわば二律背反は注意すべきである。ゆえに、番頭経営は、遂に、利潤最大化に向かうことはなかった。その理念が伝統主義であるだけではない。雇用経営者(支配人、番頭)たちの教育システムもまた、「伝統主義的」であった。