じじぃの「中国・宋代の禹跡図!世界地図が語る12の歴史物語」

禹跡図 (1136年)

宋代製作の中国全土地図「華夷図」「禹跡図」「九域守令図」「地理図」
 これらの地図は、碑文の拓本は書籍やネットで出回っているものの、碑文の全体像がわかる画像は殆ど見かけないので、例え ば、巨大な壁面の一部に刻まれているのか、或いは正方形の一面に地図が刻まれているのか、などについて知りたいと思っていま した。
http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_historial_map.html
『世界地図が語る12の歴史物語』 ジェリー・ブロトン/著、西澤正明/訳 basilico 2015年発行
帝国 混一疆理歴代国都之図 1402年頃 (一部抜粋しています)
この時代(漢王朝)から中国では地図が重視されるようになるが、その最たる例が裴秀(はいしゅう、紀元223-71年)である。裴秀は地図製作の六原則を確立したことで、中国のプトレマイオスと称されることが多い晋王朝(起源265-420年)の初代皇帝の下で司空(しくう)に任命された裴秀は『禹貢』を利用した古代の地理学研究を編纂し、『禹貢地域図』を作成したが、その後失われた。裴秀の手法は『晋書』に記録されいまも残されているが、「古文書を厳密に調査し、あいまいなものは排除し、消滅してしまった古代の地名を可能な限り分類する」というものであった。その成果は『禹貢地域図』十八編となって、ときの皇帝に献上され、極微の公文書館に保管された。地図の政策にあたって、裴秀は準則六体と呼ばれる六つの原則に従った。第一の原則は「分率」と呼ばれる縮尺の決定方法である。第二の原則は「準望」で二方向の平行線が作る直角を表わす。第三の原則は「道里」すなわち直角三角形の二辺を歩測する方法で、これによって二点間の距離を決定することができる。第四の原則は「高下」と呼ばれる皇帝の測定方法、第五の原則は「方邪」と呼ばれる直角と鋭角の測定方法、第六の原則は「迂直」と呼ばれる曲線と直線の測定方法となっている。
西洋人から見ても、裴秀の六原則は、経緯網の必要性、標準的な縮尺の使用、基本的な幾何学および算術的計算を用いた距離、高低および曲率の計算を重視する、近代の科学的地図製作法の基礎をもたらすものと思われた。これは当時のギリシャやローマ人が提供しえた技術と同等の優れた技術であったが、中国ではこれが明確に認識しうる近代的な地図作製法に発展することはなかった。その理由の一端は裴秀がこの種の地図製作に全く興味を示さなかったことにあった。
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1368年の明王朝の登場以前に作られた地図と同様に、裴秀の地図も現存していない。現存している地図でよく知られて作られた「禹跡図(うせきず)がある。英国の科学史家ジョセフ・ニーダムは、禹跡図を「地図製作上、この時代の文化における最も特筆すべき成果」と位置づけ、同時代のヨーロッパの世界図を知る者は「中国の地図製作技術がどれだけ西洋に先んじていたかを知って、驚かずにはいられないだろう」と述べている。この地図は80センチメートル角の石碑に刻まれていたもので、この石碑は現在、陝西省の首都西安の公立学校の中庭に建てられている。裴秀の地図製作の六原則に従って作られた禹跡図は、当初から極めて近代的な様相を呈していた。中国の輪郭の描写は多くの場合、驚くほど正確である。またこの地図は、裴秀が推奨しているように、縮尺を示すため格子を使用した中国で最初の地図であった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら、『世界地図が語る12の歴史物語』というタイトルの本があった。
宋王朝時代に作られた「禹跡図」という画像が本に貼り付けられていた。
現代の中国の地図と、ほとんど同じくらい正確なのだそうだ。
それに続く明王朝といえば、鄭和の大航海がある。
とにかく、中国に偉大な文明があったことは確かだ。