じじぃの「人の死にざま_1693_永井・隆(原子物理学者・長崎原爆)」

長崎の鐘 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yzzF8QjMgq8
永井隆博士

永井隆博士が残した被爆の記録と生き様 2015.07.22 nippon.com
永井隆博士は、1908年(明治41年)、島根県松江市に生まれた。
長崎医科大(現・長崎大学医学部)を卒業後、放射線医学の治療と研究に従事、当時もっとも深刻な病気だった結核治療に励んだこともあって、慢性骨髄性白血病にかかった。「余命3年」と宣告されたのは、被爆の2ヵ月前であった。38歳だった。
しかも、原爆投下の日、大学病院内で被爆し右側頭動脈切断の重傷を負った。最愛の妻の緑さんは自宅で焼死した。永井博士は、被爆直後の様子を「地獄だ、地獄だ。うめき声一つ立てるものもなく、まったくの死後の世界である」(『長崎の鐘』)と表現している。
http://www.nippon.com/ja/features/c02301/
『20世紀を一緒に歩いてみないか』 村上義雄/著 岩波ジュニア新書 2001年発行
1945年 原爆投下――「お母さん、熱いよう」 (一部抜粋しています)
アメリカは、1945年(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類が生み出した最も忌まわしい悪魔の凶器、原子爆弾広島市に投下した。爆心地の温度は摂氏3000度〜4000度に達し、強烈な熱戦と放射線、衝撃波が瞬時に人間と建物を焼き尽した。死者15万人、ついで同9日午前11時2分、2発目が長崎に投下され、7万人余がいのちを落とした。圧倒的多数が子ども、女性、老人などの非戦闘員。即死を免れた者も皮膚を焼かれ、骨を削られて、「水をください」と細い声をふり絞りながら地獄の苦しみを味わつつ悶死(もんし)していった。
イギリスの『デイリー・エクスプレス』紙特派員ウィルフレッド・バーチェット記者は9月3日、単身広島に入り、連合国側ジャーナリストとし始めて被爆地の惨状を取材し、有名な「ノーモア・ヒロシマ」の記事を打電する。
 「私は世界への警告としてこれを書く。ヒロシマを二度とくり返すな。30日後、まだ人が死んでゆく。原爆の疫病としか言いようのないなにものかによって死んでゆく。この原爆の最初の実験場で私は最も恐ろしい戦慄すべき姿をこの目で見た。(これにくらべると)太平洋諸島の戦場はエデンの園みたいなものである」
     ・
加藤周一著『続 羊の歌』(岩波新書)の「広島」と題する文章は、「叫んでいない」だけにかえって恐ろしい。著者は敗戦直後、医師としてヒロシマを訪ねたときの経験をこう書く。
 「生きのびた人々も、親類家族と抱き合い、九死に一生を得たようなよろこびを分(わか)つと思う間もなく3週間か4週間の後には、髪の毛を失い、鼻や口から血を流し、やがて高熱を発して、医療の手もまわらぬままで死んでいった」
原子物理学者で長崎医科大学放射線科部長の永井隆(ながいたかし)博士は、自分自身も被曝して重傷を負っているにもかかわらず医療隊長として被災者の救援活動にあたり、3日後、活動が一段落してからようやく自宅に戻った。家は焼け落ち、緑夫人は台所で骨になっていた。
博士は夫人の遺骨を拾い、2人の子どもが疎開している長崎市北部の通称三ツ山に向かう。さいわい2人は無事だった。しかし、ここにも多数の被爆者が救援の手を待っていた。ただちに医療隊を編成し、救護にあたったが、被曝したときに切れた右側頸動脈が再び切れ、白血病と過労が重なって危篤状態に陥ってしまった。奇蹟的に回復し、つらい闘病生活を強いられながら本を書き上げたそれが『長崎の鐘』(中央出版社)である。書き上げた当初、GHQ連合国最高司令官総司令部)が出版を差し止め、1949年になってようやく刊行にこぎつけた。
     ・
被爆地に小さな小屋を建て、誠一、茅乃の2人の子どもと暮らす日々を迎えた。
「抱き寝の茅乃がしきりに乳をさぐる。父だと気づいたか、声を殺して忍び泣きを始めた。この原子野に今宵いま幾人の孤児が無き、やもめが泣いていることだろう」(同署)
博士は1951(昭和26)年5月1日午後9時50分分、白血病のため死亡した。43歳だった。