じじぃの「科学・芸術_334_元米従軍カメラマンの遺産・写真」

Joe O'Donnell氏のメッセージ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=S73AAK5nwQs
解かされた封印 〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI 動画 Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/xzghxa
3人の兄弟 (長崎)

火傷を負った少年 (長崎)

Japan 1945: Images of U.S. Marine Photographer Joe O'Donnell February 6, 2013  American Museum of Science and Energy
●February 1 - July 28, 2013
An exhibition of images taken by the late Nashville photographer Joe O’Donnell in 1945 post-war Japan. The exhibit showcases 22 of the most compelling images O’Donnell took while serving in the U.S. Marines Corps in Japan. O’Donnell enlisted in the U.S. Marines Corps in 1943 at the age of 20 and was assigned as a photographer with the 5th Division. In 1945, he was given the order to document the aftermath of U.S. bombing raids on the Japanese cities struck by atomic bombs, Hiroshima and Nagasaki. During the seven months he spent on assignment, he also photographed cities such as Sasebo, one of the more than 60 Japanese cities that had been firebombed.
https://amse.org/2013/02/06/japan-1945-images-of-u-s-marine-photographer-joe-odonnell/
『神様のファインダー 元米従軍カメラマンの遺産』 [写真]ジョー・オダネル、坂井貴美子/編著 Forest・Books 2017年発行
写真展への道のり より
リチャードさん(牧師)のおかげで日本の写真展が実現したわけですが、彼自身はジョーの写真を次のように評価してくださっていました。
 「ジョーの写真は、原子爆弾が炸裂してできたきのこ雲の下で起きた真実を語っています。日本人にとっては、これらの写真を理解することはアメリカ人よりも容易であると思います。私たちアメリカ人は、ハリケーンや竜巻などの自然災害には遭っていますが、人間が起こしたこれほど残忍な破壊というのは、想像ができないのです。一時的な破壊ではなく、その後も長く続く原爆の被害を、私たちは経験していません。これは、ビルや家々が壊されただけでなく、罪のない子ども、女性、老人たちに降りかかった悪夢なのです。
  日米の関係を討論するとき、アメリカでは『2400人もの人々がパール・ハーバーで亡くなったのは知っているだろう』とよく言われます。私たちは答えます。『もちろん知っています。でも20万人以上の人が広島と長崎で殺され、それ以前には、空襲によって60以上の都市で何十万もの人々が亡くなっています』。1945年3月、東京では空襲によって13万人が犠牲となりました。ジョーの見解によれば、アメリカが原子爆弾を投下する必要はなかったとのことです。広島、長崎に原爆を投下する前、日本はすでに敗戦寸前でした。当時の体験をした人々が、次々とその苦しみを語ってくれました。彼らは食糧もほとんどなく、兵器も竹刀ぐらいしか残っておらず、浜辺に設置されていた地対空兵器も、実は電柱を砲身に見せかけただけのものでした。『家にある鉄製の物は何でも差し出すように』との命令が下っていたくらいで、戦う手段は本当に何も残っていなかったのです。
  この話題については、それぞれ意見が異なるのも確かです。しかし、もう過去を変えることはできません。正しかろうと間違っていようと、私たちは過去の出来事を受け止め、二度と同じ過ちを繰り返すことなく、より良い未来をつくっていくしかないのです。私たちには、これから子どもたち、孫たちにしてあげられることがあります。ジョーは常に『平和が私たちの未来、平和なくして未来はないのです』と言い続けています。彼は、これらの写真が、人々が平和の意味を考えるきっかけになればと願っています。そして、写真を見た一人一人が平和の架け橋になれることを希望しています。
  ジョーはいずれ、広島と長崎を再び訪れることになるでしょう。将来への道はすでに開かれました。この写真展が、国々の癒やしのために役立つことを祈ります」
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そしてこの訪日で、谷口稜曄(すみてる)さんとの再会が果たせたことも、ジョーにとってうれしい出来事でした。谷口さんは14歳の時に長崎で被爆し、仮設病院に収容されている時に、ジョーが彼の焼けただれた背中を撮影したのですが、その48年後に長崎で二人が再会を果たしたとは、本当に不思議です。その時のジョーの驚きは、どれほどのものだったでしょう。彼は、悲惨な傷の状況から、谷口少年がその後亡くなったものと信じ込んでいたのですから、後に出版されるジョーの写真集『トランクの中の日本』には、谷口さんが「火傷(やけど)を負った少年」として紹介されています。
 「火傷を負った少年
  病院のお手伝いが14歳の少年を横にして脇を上にし、少年のひどい火傷から膿(うみ)を流れ出しやすくした。傷からくる激しい痛みを考えると、少年が昏睡状態であったことをほとんど嬉しくさえ思う。じくじくとただれている彼の傷に蠅やうじがたかっている。蠅のたかっているこんなにひどい様子を写した写真などだれも見たくないだろうと、私は蠅をハンカチで払い傷口に触れぬよう注意しながらうじをつまみ取って撮影した。
  ひどい臭いに息もつまりそうであった。少年がまだ若いこともあって、彼の苦しみを思うと私の心はひどく傷んだ。そのあと私は頼まれない限り、これ以上被爆者の写真は撮るまいと心に決めた。
  しかし、この少年は死んではいなかった。1993年11月12日、48年後の長崎で彼に会った時の私の驚きと喜びは、言葉に表現できないほどであった」
正確には覚えていないのですが、確かジョーがこの谷口少年の写真についてコメントしていた時のことです。写真展会場に来ていた女性が「自分はこの人を知っている」と言い、不思議そうなジョーに、さらに「この人は生きています。私の上司です」と伝え、ジョーを驚かせるやら喜ばせるやらの大騒ぎだったそうです。その後谷口さんとジョーは長崎で再会を果し、ジョーが亡くなるまで親密なつきあいをさせていただきました。谷口さんは今もご健在で(2017年4月現在)、長崎原爆被災者協議会の会長として、核兵器反対運動に尽くしておられます。