じじぃの「人の死にざま_1692_テオドール・アドルノ(哲学者)」

Theodor W. Adorno - Wer denkt, ist nicht wutend (Portrait 2/2) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-1dbBpVlKi0
テオドール・アドルノ ウィキペディアWikipedia) より
テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903年9月11日 - 1969年8月6日)は、ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家。マックス・ホルクハイマー、次世代のユルゲン・ハーバーマスらとともにフランクフルト学派を代表する思想家。
ワイン商人の父オスカー・アレクサンダー・ヴィーセングルントと、歌手の母マリア・バルバラ・カルヴェリ=アドルノの間に生まれる。一人っ子であった。父オスカーはもともとユダヤ系であったが、カトリックのマリア・バルバラと結婚する前にプロテスタントに改宗している。
ナチスに協力した一般人の心理的傾向を研究し、権威主義的パーソナリティについて解明した。権威主義的態度を測定するためのファシズムスケール(Fスケール)の開発者であり、20世紀における社会心理学研究の代表的人物である。その一方アドルノナチス機関誌に発表した批評がナチスへの協力だとして問題視されている。
【主な著作】
・『否定弁証法』(作品社、1996年)
・『ベートーヴェン――音楽の哲学』(作品社、1997年)

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ヒトラーと哲学者』 イヴォンヌ・シェラット/著、三ツ木道夫、大久保友博/訳 白水社 2015年発行
亡命――テオドール・アドルノ (一部抜粋しています)
追い詰められたベンヤミンも、あくまでナチスに潰された知識人の一例に過ぎない。迫害・貧窮・逃亡・自殺――いずれも第三帝国に追われた人々の大半に共通する経験である。とはいえ、こうした大難になかにあっても、すべてのドイツ系ユダヤ人哲学者がヒトラー支配下で命を落としたわけではない。祖国をなんとか脱出した者も少なくないし、燃えさかる火に著書を投じだれながらも、海外に安息地を見つけた幸運な物もわずかだが存在していた。
テオドール・アドルノはそうして人々のひとりだ。ベンヤミンと同じく、魅力的な変人とでも言おうか。ただ彼に劣らぬ知的洞察力と感性を兼ね備えながら、性格面では少なくとも、悲劇的なところがはるかに少ないように見える。確かにこの哲学者兼音楽学者、20世紀のなかでは難読性、抽象度厄介度ともに再考レベルの思想家であるのだが、むしろ喜劇的な人物として捉えられることが多く、英国ではある種のダンディとして――哲学界のチャーリー・チャップリンとして知られていた。また生き抜く力にも優れていたし、その人生の物語も、そのほか亡命したあらゆる天才たちに彩られてもいる。
ドイツを脱出したアドルノは、1930年代中盤から1940年代の中頃までの10年間、妻や亡命仲間とともにアメリカ西海岸で暮らしていた。両親に宛てた一連の手紙で、亡命生活の魅力や不安について語っているが、そのうちのひとつ、1944年2月8日付の手紙では、当時49歳のテオドーア――愛称テディ――が、映画スターのグレタ・ガルボにまつわる愉快なエピソードを振り返っている。
  親愛なる[…]
  日曜はザルカのところでお茶でした。一家(と老シュトイアーマン嬢)のかたわらに、きらびやかな装いの女性がただひとり、何となく親しげに立っていました。ザルカが私たちの名前を彼女に伝えたことには気づきましたが、名乗らなかったことを見ると、彼女は相当有名に違いなく、当人も自分が誰かというのは相手にわかって当然といった風でした。そう考えてようやく、ぼくは彼女がガルボであることを悟ったのです。
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アドルノの生活は、社交だけでなくプライベートでも、こうした著名な亡命者たちと深く繋がっていた。たとえば、カリフォルニアに居を移したときにも、家具をそろえるにあたって有名人の力を借りている。アドルノは母への手紙でこう語っている。
  ママへ
  まあ難なくすんなり引っ越せましたが、ただ悩ましいのが、蓄音機もなく、窓ガラスが1枚痛んでいることです。荷造り業者は大変結構でした。[…]同封した見取り図から、家具の案配がわかると思います。あのフリッツ・ラング(「メトロポリス」など手掛けた映画監督)がぼくたちのために描き上げてくれたので、家具をひとつひとつどこに置けばいいか、ぼくたちにもよくわかりました。