じじぃの「人の死にざま_1680_クルト・フーバー(哲学者・反ナチ)」

Die Gedanken sind frei - The White Rose 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6aFAy8hqvik
Kurt Huber

クルト・フーバー ウィキペディアWikipedia) より
クルト・フーバー(Kurt Huber, 1893年10月24日 - 1943年7月13日)は白バラ抵抗運動のメンバーの一人。国家反逆罪により、民族裁判所で死刑判決を受け、処刑された。
1943年2月18日、ハンス・ショルとゾフィー・ショルが逮捕され、翌日クリストフ・プロープストも逮捕され、2月22日には3人に死刑判決が下り即日執行される。3人逮捕を知ったフーバーも、手紙や文書を焼却するものの、2月27日に逮捕される。
「大反逆の審判も、私から大学教授の尊厳と、世界の国家に対する見解を堂々と勇気をもって公言する。人間の尊厳とを奪うことはできない。厳しい歴史の流れは、わたしの行動と目的の正しさを証明してくれると思う」との正々堂々の論述がなされるが、アレクサンダー・シュモレルやヴィリー・グラーフと同時に4月19日に死刑判決が下りる。死刑判決後も、出版社から依頼されたライプニッツの評伝を書いていた。 ミュンヘンのシュターデルハイム刑務所で、シュモレルと同日の7月13日にて、ギロチンで処刑される。50歳であった。

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ヒトラーと哲学者 イヴォンヌ・シェラット著 電子版(本の森
第1部「ヒトラーの哲学者」では、まずカントからニーチェに至るまでのドイツ哲学が伝統的に孕(はら)んでいた反ユダヤ主義・ドイツ人優越思想の系譜を辿(たど)っている。
第2部「ヒトラーの対抗者」では、ナチスの迫害によって自殺に追い込まれたベンヤミン、長期の亡命を余儀なくされたアドルノユダヤ人女性として格闘し続けたアーレント、そして正義感から白バラ運動を組織して自らの思想に殉じたクルト・フーバーの、それぞれの苦難の歴史が辿られる。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/cont/books/2-0025290.html
ヒトラーと哲学者』 イヴォンヌ・シェラット/著、三ツ木道夫、大久保友博/訳 白水社 2015年発行
殉教者――クルト・フーバー (一部抜粋しています)
フーバーは、1893年10月24日、スイスのクールで生まれた。両親はどちらもドイツ人で、彼の生まれた4年後には家族は祖国へ戻ったから、彼が育ったのは南西部のシュトゥットガルトだった。1903年にはエーベルハルト=ルートヴィヒ=ギムナジウムに入学し、勉強熱心で成績も良かったが、父が死んだことで残された家族はミュンヘンへ引っ越すことになる。その地の大学でフーバーは音楽学、心理学、哲学を学び、1917年に博士号を取得する。3年後、薄給ながらも母校の大学で教え始め、カントやヘーゲルシェリングといったドイツ観念論の哲学者たちのほか、17世紀の哲学者にして数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツについて、極めて洗練された斬新な講義を行った。
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ミュンヘンは、民族音楽に魅了されたフーバーにとって理想郷であった。確かに1943年まで、彼はこの分野をリードする世界的権威であり、その音楽を生み出した自然の風景について語る彼は、学生を引きつけてやまない。郷土とその山を深く愛する男で、その愛の深さは講義全体を通じて現れていた。バイエルン・アルプスを歩き回り、革ズボンと羽帽子を身につけた屈強な若い農夫の歌について著すのを実に楽しんでやっているということが、学生を感化するのである。
フーバーは保守的なナショナリスト」で、しかもロマン主義の人物であったから、ナチスには格好の人材だった。さらに民族音楽は、ヒトラーが熱心に追い求めた主題でもある。だからこそ、フーバーは1936年、バルセロナで開かれた国際音楽学会のドイツ代表に選ばれたのだ。1938年、彼はベルリン大学に新設された民族音楽研究所の名誉あるポストに就かないかという心躍る申し出を受けた。家族を支えるための収入が必要であったため、フーバーはこの申し出を承諾したが、まもなく期待された仕事がナチのプロパガンダであることに勘づく。これはジレンマでもあった。というのも、ナチスに抵抗すればポストを失うことになるばかりか、家族はやりくりに苦労することになる。それでいて、ナチスの要求に答えたなら、彼の人生で最も大事な、倫理と知性というふたつのものの価値を汚し、無意味なものにしてしまうことになる。家族と長いあいだ相談した結果、選ぶことのできる唯一の道を取り、自らの信念に従うことにする。自分の研究対象を愚弄し、本物の民謡をナチの国家に変えるなど言語道断、ドイツ農民の魂を改竄し、政治的利益のための茶番につきあうことは断固として拒否する、と。他の哲学者が誰一人としてする覚悟がなかったことを、フーバーは行なった。そしてそのために、彼はそのポストから即刻解任されることになる。
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ヒトラーイデオロギーに反対する者たちとは対照的に、フーバーは左翼でもなければユダヤ人でもなかった。彼は、伝統を尊いものと、そして民族を大切なものと信じる、保守的なナショナリストであった。むろんドイツ文化の偉業を心から誇っていた。だが、フーバーはいかなる類の暴力も激しく嫌っていたし、ヒトラーをドイツ社会の価値観を体現する者ではなく、破壊する者だと捉えていた。ハイデガーとは違って、フーバーはヒトラーの話しぶりに惑わされることはなく、大学にいる多くの同僚たちとは逆に、彼は声を出したのだ。個人の権利、また宗教や同胞への思いやりの大切さをそれとなく唱えるといったように、フーバーの抵抗はさりげないウィットのなかに隠されていた。危険であるにもかかわらず、ヒトラーに対する辛辣な言葉を抑えることができない。講義の内容にユダヤ人が出てくるときも、皮肉を込めてこうコメントするのだ。「気をつけなさい。彼はユダヤ人だ!くれぐれも汚染されないように」、と。こんなささいな類の抵抗でさえ口にすることは危険であったのだが、こうした言葉を聞いたナチの将校が、それを皮肉と取ったのか、巧みに偽装されたただのレトリックと受け取ったのかは、今となってはわからない。