じじぃの「科学・芸術_800_ルクセンブルク・亡命政府」

Luxembourg American Cemetery & German War Cemetery.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jENyv_O3-zo

Grand Duchess Charlotte

小さくても存在感の大きいルクセンブルク

2011-05-12 ホリデイ現役添乗員日記
今回も、「オランダ・ベルギー・ルクセンブルク8日間」で行ったのですから、半日、ルクセンブルク市内の旧市街中心に、そのエッセンスを味わうツアーでした。小さくても、山椒のように小粒でピリリと辛いルクセンブルクを紹介しましょう。
女大公の時代もあって、シャルロット女大公は、第二次大戦中、女大公に好意的なアメリカのホワイトハウスを根拠地として、亡命政府を指揮し、祖国独立に尽くした英雄です。
https://blog.goo.ne.jp/tex-td/e/2daecf00c47c30745ca51d598d4635de

ルクセンブルクを知るための50章

田原憲和、木戸紗織/編著 赤石書店 2019年発行

第二次世界大戦の苦難 ゲルマン化政策とレジスタンス より

1949年5月10日、ヒトラー率いるナチス・ドイツの軍隊は国境を越えてルクセンブルクに侵攻し、ルクセンブルクのほぼ全土がその日のうちにドイツの占領下に入った。ドイツによる侵略を経験した第一次世界大戦終結から約20年後のことであった。
ドイツ軍の先陣がルクセンブルク市へと迫る中、わずかの差で大公家は逃げ切り、フランスへと脱出した。大公家はポルトガルを経て、英国のロンドンへと移った。ロンドンでは亡命政府がつくられる。さらに、大公家はより安全なカナダのフランス語圏の都市、モントリオールへと移った。大公家だけでなく、有力な閣僚であるジョセフ・ベッシュもロンドンへ、ピエール・デュポンはその後モントリオールへと亡命した。亡命政府はロンドンとモントリオールの2拠点に分散し、やや不便を強いられたが、その一方で亡命政府の動向はルクセンブルクの存在を世界に知らしめることになった。閣僚の1人であり、戦後に音声学者のジャン・フェルテスとともにルクセンブルク語の火器核に乗り出したことでも知られる二コラ・マルグは、ドイツ軍に捕えられ、家族とともにシュレジエンへと強制移住させられた。
1940年6月14日にドイツ軍はパリを占領し、フランスを降伏させた。フランスがあっけなく降伏したことは、ルクセンブルクでは落胆を持って受け止められた。1940年7月末、ナチス・ドイツはコブレンツからルクセンブルクまでを含めた「モーゼル大管区」を設置し、その長官にグスタフ・ジーモンを任命した。1940年8月以降、ジーモンはルクセンブルクをドイツの一部とすべく、この国の徹底したゲルマン化政策に乗り出した。公用語はドイツ語のみとし、フランス語の使用や教育は禁止された。新聞、雑誌、広告、公共表示などすべてがドイツ語に統一され、地名や道路名もすべてドイツ語となった。
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一方、シャルロット女大公は1940年9月5日、英国BBC放送を通じて初めてルクセンブルク語でルクセンブルク国民に向けて語りかけた。当時、大公家が民衆語のルクセンブルク語を用いることは考えられないことだったこともあり、放送は反ナチスレジスタンスの大きな支えとなった。1941年からは週に一度、1943年からは毎日、女大公の声がBBCを通じて放送された。
ジーモンの政策は政党や憲法の禁止、国会や各種行政委員会の廃止に及び、名実ともに国家の解体であった。また、1935年にダミアン・クラッツシュンベルグによって設立された対ナチス協力団体である「ルクセンブルク・ドイツ文学芸術協会(GEDELIT)は、1940年6月に「ドイツ国民運動」へと置き換った。この団体は「ルクセンブルク人よ、血の声を聞け! その声は人種も言語も君はドイツ人だと言っている。名誉あるルクセンブルク! 本当のルクセンブルクとは純粋なドイツにほかならないのだ」というかけ声のもと、ジーモン率いるナチスから全面的な協力を得て運動を拡大した。
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1942年8月30日には、ナチス・ドイツによる徴兵がルクセンブルクアルザス、ロレーヌで同時に開始された。きわめて強権的に行われた徴兵制度であったため、工場から学校に至るまで、ルクセンブルク全土でストライキが行われた。大管区長官のジーモンはこの事態に対して暴力的な手段で対応、多くのルクセンブルク人を逮捕し、形式的な裁判で21人に死刑判決を下した。合計で10211人のルクセンブルク人が徴兵され、2848人が戦場で死亡した。また、3510名は脱走したとされる。ナチスの政策に協力しない者、脱走兵の家族などは、近くのヒンツェルトをはじめとする強制収容所へ送られた。ユダヤ人にはさらに悲惨な運命が待っていた。戦前にはユダヤ人は国内に約3800人いたとされるが、そのうち1300人がホロコーストの犠牲となった。
なお、レジスタンスがいた一方でナチスに積極的に協力したものもいたことは記さねばならない。ルクセンブルク国家社会主義ドイツ労働党への参加者は、約4千人にいたとされる。
1944年9月10日、ルクセンブルクアメリカ合衆国によってひとたび解放された。しかしドイツは1944年12月に反撃を開始(バルジの戦い)、ルクセンブルクは激戦の舞台となったために、大きな物的損害を被ることとなった。その後、戦火はおさまり、1995年4月14日にシャルロット女大公が帰国、5月8日にドイツが無条件降伏し、戦争は終結した。この戦争によって、ルクセンブルクでは人口の2%に相当する5700人が死亡した。特に若者層を多く失ったことにより、人口構成が歪になってしまった。