【カースト差別】家畜と呼ばれる人々の暮らし〜インド〜 動画 YouTube
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「世界安楽死を巡る旅」オランダ編その3 2016.05.10 NEWSポストセブン
ジャーナリスト、宮下洋一氏によるSAPIO連載「世界安楽死を巡る旅 私、死んでもいいですか」。今回はオランダ編だ。
オランダは世界で最も早く安楽死を合法化し、その理解も国民の間に浸透しているという。2014年のデータによれば、安楽死の申告数は約5300件に上るともいわれている。世界で最も「死ぬ自由」が定着した国といっていい。認知症を理由に命を絶った79歳男性のケースを報告する。
「いいかい、人間はみんな個人の生き方があるんだ。死ぬ権利だってある。誰ひとりとして、人間の生き方を他人が強要することなんてできないんだ。それだけは理解してくれ」
http://www.news-postseven.com/archives/20160510_409932.html
『しょぼくれ老人という幸福 人生を幸せにする執着の捨て方』 ひろさちや/著 悟空出版 2015年発行
人は生きているだけで迷惑だ (一部抜粋しています)
わたしはしばしばインドにでかけますが、実に多くの物乞いの姿を目にします。しかも、なんらかの身体的ハンディキャップを持っている人の比率が高いのです。インド人に聞くと、そういう人のなかには、親によって、手足を切り落とされたり、片耳を切り落とされたりした者も少ないといいます。
そうした現実を目の当たりにしたとき、日本人や西洋人は、「残酷だ」と非難するでしょう。たしかに、とてもかわいそうです。
しかし考えてみると、そういうふうに手を切られ、足をもがれたからこそ、子どもたちは親といっしょに生きていけるのです。
もちろん自分の子の手を切り、足をもぐのが平気な親なんていないでしょう。それでも、その子が生きていき、将来、少しでも実入りがよくなるようにするのは、そうするしかないのです。
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もちろん、わたしはそれを続けましょうと言いたいわけではありません。
しかし、そうした風習が生まれた背景に、夫に先立たれた未亡人がいきていくのが非常に困難な社会があったことはたしかでしょう。そのため、夫を失い、気持ちが高ぶっているときに、ワッと火のなかに飛び込んだほうが楽だという価値観が生まれたのではないでしょうか。そう考えれば、そんな風習もある程度理解できるような気がします。
また、イスラム教が生まれた砂漠の社会においては、「孤児」を意味する言葉として、「両親共に死んだ孤児」と「父親がいない孤児」があるものの、「母親のいない孤児」という意味の言葉は存在しないそうです。
それが意味するのは、自然環境の厳しい砂漠の世界では、母子家庭は存続できなかった。父親を失った子どもは、たとえば母親が生きていたとしても生きていけなかった。だから、「母親のいない孤児」を意味する言葉は必要とされなかった、ということです。
そんな世界では、夫あるいは父親が死んだとき、残された妻子は、夫の兄弟である伯父やその親類を頼るしかなかったし、頼られたほうはそんな女性や子どもを日陰者にするわけにいかなかった。そこで、イスラム教では一夫多妻が認められるようになったというわけです。
ここでわたしが言いたいのは、「どんな背景の社会であれ、生きて、そして老いていくということがいかに難しく、どういう制度がいちばんいいのかを決めるのは決してたやすいことではない」ということです。
そう簡単に、答えの見つかる問題ではないのです。
そのことを、日本人は戦後の奇跡ともいえる高度成長期のなかですっかり忘れてしまっているようです。
戦後の教育のなかで教えられてきたのは、ひたすら「平等」と「権利」のふたつでした。でも、年寄りが生きていくことを絶対の権利ととられるのではなく、ある意味で「許されている」にすぎないのだと考えてみてはどうでしょうか。
そもそも、年寄りでなくても人間は生きているだけで「迷惑」な存在です。
わたしの母は、96歳まで生きましたが、母が生きている間、わたしはずっと気にしていました。もちろん、母が生きていてくれたことは、最後までわたしにとって大きな喜びでしたが、誤解を恐れず言えば、母は、生きていることでわたしに迷惑をかけていたのです。
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どうでもいい、じじいの日記。
先日、図書館のなかで新刊書コーナーを覗いてみたら、ひろさちや著 『しょぼくれ老人という幸福』という本があった。
人は生きているだけで迷惑だ?
「誤解を恐れず言えば、母は、生きていることでわたしに迷惑をかけていたのです」
何となく、75歳を過ぎたら、生きているだけで迷惑のような気がする。
75歳になったら、「死を選ぶ権利」があってもいいような気がする。
でも75歳になれば、もう5年生きたい、となるのだろうか。