じじぃの「人の死にざま_1673_ジャン・マルタン・シャルコー(解剖病理学・神経科医)」

ヒステリー

ジャン・マルタンシャルコー
ジャン・マルタンシャルコー(Jean Martin Charcot, 1825 - 1893)は1825年11月29日に車大工の長男としてパリで誕生したが、医師・教授としてサルペトリエール病院でフランス精神医学界の権威にまで上り詰めた人物である。20代前半のS.フロイトは、ウィーン大学でE.ブリュッケ教授の生理学研究室に所属して神経学の研究をしていたが、E.ブリュッケが死去すると大学内のユダヤ人差別などの問題もあって、ウィーン大学の医学部教授(神経学・神経疾患の研究者)になることを諦めた。
その後、S.フロイトはウィーン総合病院で神経疾患の臨床医としてのキャリアを積み重ねていくが、1885〜1886年にパリに留学した時に、当時の神経学(ヒステリー治療)の最高権威であったJ.M.シャルコーに『催眠療法・暗示療法』などの指導を受けている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/biblio/biography009.html
『脳と心の謎に挑む―神の領域にふみこんだ人たち』 高田明和/著 講談社 2002年発行
神経学の創始者シャルコー (一部抜粋しています)
さて19世紀には神経の病気は現象、つまり症状からのみ解析されていました。しかし、実際に病人の脳を解剖して、どこに異常がありかを調べるべきだと主張し、実行したのがジャン・マルタンシャルコーだったのです。
シャルコーは1825年に中流階級の職人の家に生まれました。彼は内気で孤独を好む少年でした。最初は芸術家になろうとしたのですが、当時のフランスでは、医学は家柄と関係なく昇進出来る分野であり、経済的にも安定を保証する職業でした。彼はとくに優秀というほどではありませんでしたが、患者を観察する能力については卓越していて、周囲の人に印象づけました。
後に、シャルコーは自分を「目に頼る人間」、つまり自分の目で見たものを大切にし、他人の見落としたものを見る能力をもつ火と表現しています。
シャルコーの名前によりとくに有名になったのはサルペトリエール病院です。
この病院は今でももちろんありますが、もともとこれは弾薬庫でした。セーヌ河の右岸でパリの中心部にあったこの弾薬庫はしばしば爆発しました。そのために近くの裕福な商人たちはルイ13世に請願し、これを移転させ、セーヌ河の左岸に作らせたのです。17世紀になると貧困が町をおおい、医療、食料などの援助のために多くの慈善施設が作られました。その一環としてサルペトリエールは病院になり、病気の女性を受け入れる施設になりました。最盛期には八千人の女性の老人、精神異常者、慢性の病人がここに入れられていたのです。
さてシャルコーがこの病院に勤めるようになると、彼は病院の建物が崩壊寸前であること、また五千人の患者はまったく惨めな状態におかれていることに気づきました。
昔一緒に研修医をやったバルパン医師と再会した彼は、ただちにこの病院の改革に乗り出したのでした。
彼らは直ちに病院にいる患者を調べました。すると半数以上は貧困者か、精神に異常のないテンカン患者でした。さらに彼らは患者の精神状態、身体を調べ、精神異常の者は精神科の医師に任せました。
彼らは患者の大部分がテンカンと診断されていましたが、実際はそれ以外の異常であると知り、さらにその病気の本質を知るために患者の死後解剖をすること、さらにその脳を顕微鏡で調べることを実行しました。
これが、シャルコーが新しい分野、つまり神経学を創始するきっかけになったのです。
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シャルコーはヒステリーの患者は催眠にかかりやすいという理論をもっていました。
つまりヒステリーでない人は催眠術にかからないというものです。しかしヒステリーと催眠のかかりやすさという性質は遺伝するものではないという考えも出されました。
ところでシャルコーがあまりにも偉大であるために、彼の弟子は患者に演技をするように仕組んだりしました。このためにヒステリーが催眠で治るということとか、ヒステリーの患者が催眠にかかりやすいということなどは、じつは患者がそのように振る舞うように仕組まれていたということがわかり、シャルコーの名声を傷つけることになったのです。
現在では心の異常はヒステリーという形でなく体に現れることが多くなっています。これを転化ということはすでに述べました。
心と体の問題を取り上げ、これを大きく発展させた人物の一人がシャルコーといえるでしょう。