じじぃの「人の死にざま_1667_チャンドラ・ボース(インドの独立運動家)」

NETAJI SUBHASH CHANDRA BOSE DOCUMENTARY (FULL) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tQXNNdeL4q0
日本とインドはなぜ急接近しているのか 海外メディアも注目する背景 2015年12月12日 ライブドアニュース
日本は第2次世界大戦でインドに攻め入ることもなく、その一方、日本がインド独立運動の闘士たち、特にスバス・チャンドラ・ボースに保護を与えたことで、多くのインド人は今でも日本を称賛している、とエコノミスト誌は語る。友好的な国民感情の下地があったわけだ。
http://news.livedoor.com/article/detail/10945020/
スバス・チャンドラ・ボース ウィキペディアWikipedia)より
スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、1897年1月23日 - 1945年8月18日)は、インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 〜1939年)、自由インド仮政府国家主席インド国民軍最高司令官。民族的出自はベンガル人
【事故死】
1945年8月15日の日本の敗戦により、日本と協力してイギリスと戦いインド独立を勝ち取ることは不可能となった。ボースはソ連に協力を求めるために、日本軍関係者の協力を受けて満州へ向かおうとした。ボースは満州ソ連軍に投降し、それから交渉を行うつもりであった。8月18日午後2時、ボースは台湾の松山飛行場から大連へ向かう予定であった九七式重爆撃機に乗り込んだ。乗り込む直前には一人のインド人に「東南アジア在住300万のインド人からの贈り物」である宝石・貴金属の入った二つのスーツケースを受け取った。しかし離陸直前に左側プロペラが外れ、機体はバウンドして土堤に衝突、炎上した。
9月5日、ボースの遺骨は日本に運ばれ、9月7日には参謀本部の元に届けられた。日本陸軍はインド独立連盟東京代表ラマ・ムルティに遺骨を引き渡した。東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺の住職望月教栄が葬儀を引き受け、9月18日にボースの葬儀が行われた。

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『インド・アズ・ナンバーワン』 榊原英資 朝日新聞出版 2011年発行
日本と対局にあるインド (一部抜粋しています)
インドは伝統的に木綿の生産地で、14世紀前後から17世紀あたりまではいわゆる三角貿易が行われ、東南アジアの香辛料を求めたヨーロッパが銀で中東から香辛料を買い、インドは木綿を東南アジア(香辛諸島)に輸出し、東南アジアは中東に香辛料を与え、ヨーロッパからの銀に変えていました。しかし、オランダとの香辛料競争に負け、東南アジアからインドへ撤退したイギリスは、17世紀初め頃からインド木綿を直接本国に持ち帰り、その需要の創出を始めました。1660年から100年間のイギリスのアジアからの輸入の3分の2がインド木綿を中心とする織物(絹織物を含む)で占められることになったのです。
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こうして植民地化されたインドは19世紀中頃から没落していくのですが、1920年代に入るとマハトマ・ガンジージャワハルラール・ネルーの指導のもと国民会議派が完全独立を目指し、粘り強い反英・独立運動展開されます。1930年3月、ガンジーは国民の願いに応えて、不服従運動を組織することになり、この時に「塩の行進」を始め、イギリスの塩の専売に抗議しつつ反英・独立運動を平和裏に進めていきます。アネダバードからダンディの海岸まで200マイルを29日かけて行進したのです。
こうしたガンジーネルーの非暴力・不服従運動に納得できない急進派のチャンドラ・ボースは日本の軍事力によってイギリスから独立を獲得しようと日本に亡命し、インド国民軍を結成します。インド国民軍は、日本軍が1942年にイギリス領マラッカやシンガポールを占領した後、捕虜となった英印軍将校の中から志願兵を募集したのが、その端緒となりました。
第二次世界大戦は日本の暴走という側面はあったにせよ、インド等、アジアの植民地を欧米から解放するという大義も掲げていましたし、事実、大戦後、インドを始めアジアの国々は次々と欧米から独立していったのです。日本は中国を侵略し、中国は日本軍と戦い独立を勝ち取っていったのですが、インドは、逆に、日本をある種の梃子にしてイギリスからの独立を果たしていったのです。それゆえ、中国には強い反日感情が醸成されましたが、インドはどちらかというと親日的スタンスを維持し続けました。チャンドラ・ボースとともに日本に亡命したもう一人のボース、ビハリー・ボースはイギリスのインド提督に爆弾を投げてインドを逃れたのですが、大川周明等によって新宿の「中村屋」に匿われ、中村屋の娘と結婚し、今では名物となっている中村屋の「インドカリー」をつくったといわれています。