じじぃの「高齢者への対応・敬うか・遺棄するか・殺すか?昨日までの世界」

敬意が払われる老人とは?

『昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来』  ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 日本経済新聞出版社 2013年発行
高齢者への対応――敬うか、遺棄するか、殺すか? (一部抜粋しています)
これまで考察してきたように、高齢者が社会にとって有用かどうかについての評価の違いが、高齢者の世話をするか否かを左右する要因になっている。ところが、高齢者への対応の違いを左右する要因はもうひとつ存在しているのである。それは、価値観の違いである。つまり、その社会が高齢者を尊敬する社会なのか、あるいは軽蔑する社会なのかによっても、高齢者への対応は異なるのである。しかし、人間文化の他の領域と同じく、有用性が高いからといって敬意が払われるわけではない。有用性と評価の連関は緩やかなものである。高齢者の経済的な役割が同程度のふたつの社会を比べても、一方が他方よりも高齢者への尊敬が強かったりする。
高齢者に対して少なくともある程度の敬意を払う。これは人間の社会において広く実践されていることである。
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高齢者の記憶に価値をみいだす。そのような例はそれこそ無数にある。そして、以下に、私自身の経験から2つのエピソードを紹介しておく。
私が紹介するひとつめのエピソードは、1902年生まれの大学教授で、私の指導教官だった人にまつわるものである。1956年にその教授が私に語ってくれたのは、教授の昔の記憶、つまり、移動手段が馬車から自動車へ変わっていくのを目にしたときの記憶である。その時代に、アメリカの都市部で成長した人々が感じていたことについて、その老齢の教授が自分の記憶にあることを私に教えてくれたのである。その当時、私の指導教官をはじめ、同年輩の人々は、この移動手段の変化をおおいに歓迎したそうである。町から馬糞が消え、町が清潔になる、と思われたからだそうである。馬のひづめの騒々しい音も消え、町が静かになると思われたからだそうである。もちろん、車がもたらしたのは、清潔な町でもなければ、静かな町でもない。大気汚染と騒音の町だった、という事実を後知恵的に知っている、いまの時代のわれわれからすれば、当時の人々の発想が愚かに思える。しかし、われわれは、この老教授の記憶から、大きなメッセージを受け取ることもできるのである。それは、技術革新はつねに、当初期待されたメリットに加え、予想外の問題をももたらし得るということである。
もうひとつのエピソードは、86歳の元海兵隊員の記憶にまつわるものである。その人は、当時22歳の私の息子ジョシュアと私が夕食をしにいったホテルで、私たちとテーブルをともにした人であり、1943年11月20日、日本軍の激しい反撃に抗しながら、太平洋南西部のタラワ環礁の浜辺にアメリカ軍が猛攻をかけたときの話を、みずから私たちにしてくれた人である。タラワの戦いは、第二次世界大戦のなかでも最大級の激戦となった陸海共同上陸作戦のひとつだった。それはタラワ環礁の0.5平方マイル(約1.3平方キロメートル)にも満たない地域において、わずか3日のうちに、1115人のアメリカ兵士が戦死し、4601人の日本軍のうちの19人を除く全員が殺されてしまった戦いだったのである。私は、タラワの戦いについての話を、その戦いに実際に参加した人から直接聞かされたのは、そのときが初めてだった。そして、私はそのとき思ったのである。息子のジョシュアには、このような恐ろしい体験を絶対にさせたくない、と。しかし、ジョシュアや彼の同世代の人々もまた、65年以上前に起きた最後の世界大戦のようすを、高齢の生存者の記憶から学ぶことができれば、彼らのその知識をもとに母国のためによりよい選択をできるかもしれないのである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
高齢者をどう敬うか、遺棄するか、殺すか?
ジャレド・ダイアモンド著 『昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来』の本には、
「その社会が高齢者を尊敬する社会なのか、あるいは軽蔑する社会なのかによっても、高齢者への対応は異なるのである」
と、書かれている。
確かに、「私はダ〜レ」
は、ヤバイと思う。
「私は少〜し、ヤバイじじぃ」
殺さないでね。