じじぃの「人の生きざま_621_堀場・雅夫(堀場製作所創業者)」

堀場製作所の創業者・堀場雅夫氏死去 90歳、肝細胞がんで 2015.7.16 産経WEST
京都市に本社を置く分析・計測機器メーカー、堀場製作所の創業者で、戦後の「学生ベンチャー」の草分けとして知られ、同社最高顧問の堀場雅夫(ほりば・まさお)氏が14日、肝細胞がんのため死去した。90歳。
http://www.sankei.com/west/news/150716/wst1507160061-n1.html
堀場雅夫

株式会社堀場製作所 堀場 雅夫 ニッポンの社長
●好きで好きでたまらん!
堀場雅夫は、1924年大正13年)12月1日に京都市で生まれた。京都帝国大学の理学博士だった父親の教育方針は、「自由放任主義」。幼い頃は野山を駆けめぐって育った。父親とは対照的に母親は心配性だった。母親からはよく叱られることもあったが、堀場少年は恵まれた幼少時代を過ごす。
しかし堀場が小学4年生の時、突如不運が襲いかかる。小児リュウマチにかかってしまったのだ。堀場は静養を余儀なくされる。その静養中の寂しさとリュウマチの痛みを紛らわすため、堀場は模型飛行機に熱中した。幼心ながら、モノ作りに対する想いは、この頃に培われたのかもしれない。
http://www.nippon-shacho.com/interview/in_horiba/
『戦後70年 にっぽんの記憶』 橋本五郎/編、読売新聞取材班/著 中央公論新社 2015年発行
まさかの原子爆弾 多くの人生を変えた 堀場製作所最高顧問 堀場雅夫 (一部抜粋しています)
太平洋戦争が始まった翌々年の1943年(昭和18年)に京都帝国大、今の京大の理学部に入学しました。
原子核物理を学びたかった。物質をどんどん細かく分割していくと、原子核に行き着く。言わば物の究極の姿です。それを探求すれば、世の中のすべてわかるのではないか。そう考えていました。
ただ、まともに勉強できたのは最初の1年だけ、文科系の学生は学徒出陣していました。理科系は卒業まで兵役を免除されましたが、軍需工場などに駆り出された。僕も陸軍の委託性として技術研究所の電波兵器、つまりレーダーの実験をしました。
当時、米国のB29爆撃機が、盛んに爆弾を落とす手いました。迎撃しようにも、なかなかうまくいかない。高射砲の命中率も悪い。では、電波を当ててB29を探し、そこに戦闘機を誘導して体当たりさせたらどうか。その探知機を開発する実験だと聞かされました。結局、完成せずに終わりましたがね。
日本のために戦い、死ぬことに疑問はなかった。その時までに少しでも良い技術を開発したいと思っていました。
終戦の直前、僕たち原子核物理の学生は、京大に呼び戻されました。広島と長崎に新型爆弾が落とされた。原子爆弾らしい。それを確認するためです。
現地調査に出かけたのは、先生や先輩ですが、僕らは、放射線測定器の整備などに追われました。様々なデータを集め、原子爆弾に間違いない、と分かりました。
信じられなかった。原子核が分裂したり、くっついたりすると、とてつもなく大きなエネルギーが出る。理屈は分かっていました。でもそれを爆弾にまで仕上げるなんて、僕らの常識では考えられなかった。だが米国は、やってしまった。
実は、京大でも原子爆弾を作るための検討をしていたそうです。研究室の先生はそんなことは言わなかった。軍事秘密ですからとうぜんです。その話を聞かせてくれたのは父です。京大理学部の化学の教授だったので、耳に入っていたのでしょう。
でも、かりに戦争がもっと続いていれば、日本も原子爆弾を作っていたかというと、それは無理。ひつような装置を動かす電力が全く足りなかった。にもかかわらず、なんとかならんか、とやっていたのです。
戦争が終わり、これから大学で好きな研究ができると思いました。研究者になるのが夢でしたから。ところがそれはすぐに破られた。連合国軍総司令部GHQ)が、原子爆弾に結びつくと、原子核原子力の研究を禁止したからです。
その年の11月、GHQが大学へやってきて、実験装置を破壊し、全部どこかへ運び出しました。完成間地だった最新鋭のサイクロンという装置も……。
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終戦から10年以上過ぎた58年に初めて米国を旅しました。飛行機で飛んでも陸が続く。日本みたいな狭いところとは全然違う。よくこんなところとあれだけ戦ったな、と思いました。あの大きさを実感できていたら、そんなところを攻めてもどうしようもない、と考えたことでしょう。