じじぃの「人の死にざま_1658_結城・無二三(新選組の元隊士)」

結城無二三

「牧師になった新撰組隊士」 =結城無二三の生涯=
結城無二三山梨県山梨市日川村一丁田中で生まれました。1845年(弘化2年)のことです。代々医者をしていた家に長男として生まれたので、周囲も本人も当然、医者になるものと思っていました。
48才になった無二三牧師は、尊敬して止まないイビーが再来日し、東京で本郷中央会堂を建て、協力して欲しいと依頼されたので、山梨での牧師生活を中断して上京しました。
この事業は2年で終わってしまったので、1895年(明28)山梨にもどって石和講議所の牧師となり、1898年には再び日下部講議所牧師となりました。1901年(明治34) 56才で牧師を引退し、東京で生活し、1912年(明45) 67才で亡くなりました。妻と子供たちに「おれは平和だ何も思い残すことはない」と言い残しました。
http://www1a.biglobe.ne.jp/hama-ch/yuukimunizou.html
『続・誰も書かなかった 日本史「その後」の謎』 雑学総研/編 中経の文庫 2015年発行
伝道師として布教に努めた新撰組隊士・結城無二三 (一部抜粋しています)
新選組の隊士の中でも、もっとも興味深いその後を送ったのが、結城無二三(ゆうきむにぞう)である。正確にいうと、彼の名を隊士名簿で確認することができないため、「自称隊士」であるといわざるを得ない。事実、現在出版されている新撰組関連の本のページを繰ってみても、彼の名前を見出すことはほとんどなく、コラムであつかわれるのがせいぜいである。だが、彼には息子・禮一郎が著した『お前達のおぢい様 旧幕新撰組結城無二三』という無二三の伝記があり、史実として疑問に残る記述はあるものの、彼の唯一の伝記として現在まで残されている。
1845(弘化2)年4月、甲斐の日川村(現・山梨県山梨市)の医者の家系に生まれた無二三は、幕府御典医の書生をしていたとき、攘夷思想に触れ、大橋訥庵が開いていた向島の思誠塾に入った。元来、血気盛んな性格の持ち主だった彼は、その後、新撰組とともに京都守藩職の下にあった見廻組の寄宿人となり、京都へ向かう。
その後、新撰組を裏切り離脱した伊東甲子太郎一派の暗殺に参加し、甲陽鎮撫隊新撰組が幕府から甲陽鎮撫を命ぜられたあとの名称の一員として大砲指図役などに就いていたが、甲州に身を潜めて」いた頃、明治へと改元された。無二三の幕末は、ここで終わりを迎えたのだ。
では、その後、無二三はどんな人生を歩んだのだろうか?
沼津の兵学校の附属小学校で語学や算術を学び、牛を飼って生活していた無二三は、甲州一揆が起きたという報を耳にすると、明治政府を転覆するための反乱を起こそうと決意するのだ。
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鳥居平という山奥に建つ大積寺という廃寺に住み込んでいたときに聖書を読んだ。無二三は山に籠るとき、いくつかの本を持ち込んでおり、その中に支那訳(漢訳)の聖書が含まれていたためなのだが、ある日、妻とともに高熱を出して難儀していたとき、神に祈ったところ、ぐんぐんと熱が下がった。これに霊力を感じた無二三は、急速にキリスト教へ傾いていったようである。その後、甲府を訪れていたイビイ牧師より洗礼を受け、キリスト教徒となったのだ。1879(明治12)年4月のことであった。
いったんこうと決めたら譲らない性格だった無二三は、洗礼後は酒を絶ち、東京へ出て神学を修めると、静岡で伝道生活を3年ほど送り、東京でも活動して教会の設立などに尽力している。そして、1912(明治45)年、胃がんによりこの世を去った(享年68)。
無二三の生涯については、在野の歴史学者森銑三の書き残した文章がもっとも適切かもしれない。
結城無二三は、変化に富む一生を送った人だった。(中略) 幕臣でありながら慶喜が嫌ひで、朝廷側では岩倉が嫌ひだった。それは終生変わらなかったらしい。(中略) 無二三の生涯は、多事でもあり、また多難の連続であったとも見られるが、無二三はその何(いず)れの時代においても己を枉(ま)げず、また偽らずに、その天真を発揮してゐる。この伝記(註:『お前達のおぢい様』のこと)を読んで、私はその一事に最も心を打たれる」(「結城無二三」『森銑三著作集 続編 第五巻』(中央公論社))