じじぃの「人の生きざま_612_明石・康(元国際連合事務次長)」

明石康 元国連事務次長 「戦後70年 語る・問う」⑪ 2015.2.3 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WNEwdprArSg
明石 康さん プレジデント
明石 康(Yasushi Akashi)
1931年、秋田県生まれ。
東京大学、同大学院を経て、バージニア大学、タフツ大学フレッチャースクール、コロンビア大学に留学。57年に日本人で初めて国連職員に採用された。
79年から国連事務次長。以後、カンボジアでの暫定統治や旧ユーゴスラビアでの和平交渉に当たった。97年末に国連を退官。
現在は、スリランカ平和構築及び復旧・復興担当日本政府代表を、無給で務めている。大のラーメン好きで、海外ではインスタントラーメンも。お酒は「和食には、冷やや熱燗よりも、ぬる燗がいい」。
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2010/20100719/15527/15534/
『戦後70年 にっぽんの記憶』 橋本五郎/編、読売新聞取材班/著 中央公論新社 2015年発行
創る平和 日本の役割  元国際連合事務次長 明石康 (一部抜粋しています)
戦争が終った年、私は14歳。旧制秋田中学(現・秋田高校)の3年生でした。
仲間内では「この戦争は負けるだろう」と話し合っていた。「広島に新型爆弾」という報道があっ時には、「原子爆弾ではないか」という同級生もいた。田舎にいたわれわれも様々な情報を聞きかじっていたのです。
ただ、戦争の行方に疑問を持ちつつも、私たちは国のために頑張るしか道はないと思っていました。
あの夏は、荒れ地を開墾する勤労奉仕に駆り出されていました。小学校の体育館に泊まり、毎朝、クワをかついで出かけました。
秋田は米どころ。それなのに十分に米が食べられない。おかずは朝も昼も夜も大根。本当にひもじい想いをしていました。
玉音放送を聴いて感じたのは、「これから何が起こるのか」という不安でした。
でも2、3日したら「平和になったんだ。明るい時代が来るのかなあ」という希望も湧いてきた。
それから、2、3週間たつと今度は、大人たちへの不信感が強まりました。
鬼畜米英と声高に叫んでいた一部の先生や地域の指導者が、「これからは民主主義の時代だ」と言い始めた。軍国主義礼賛からアメリカ礼賛に変ったのです。一夜で民主主義者になったような顔をしていました。
われわれはそこに欺瞞を感じ、「大人は信頼できない」と思いました。日本の針路を誤った国の指導者に対する批判を仲間と語り合ったのを覚えています。日本の将来はお上に任せるのではなく、自分の頭で考えないとだめだと思いました。
そして、本物の民主主義とは何か、アメリカとは一体どんな国なのかをいずれ勉強したいと思ったのです。
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64年の東京五輪新興国だった日本にとり、ある種の成人式、晴れがましい国際的な認知の場でした。
また、日本は戦後、善いこと、誇れることをたくさんやってきた。アジア諸国にも賠償はきちんと出し、様々な形の援助も行った。
急速な復興の背景には外的な要因もありました。
日本の周辺では50年に朝鮮戦争が始まり、60年代から70年代にかけてはベトナム戦争が起きた。2つの戦争は日本に特需をもたらし、結果的に米国による欧州の経済復興計画「マーシャルプラン」のような役割を果たしました。
また日本は米国に安全保障を頼り、経済に集中できた。これもラッキーでした。
今後の日本については2つのことを言いたい。
まず歴史認識についてです。日本は戦前の拡張政策でアジアの周辺諸国に言葉で表し得ないような辛苦を与えた。我々は加害者でもあった。そうした不幸な歴史の事実の前では今後も謙虚であるべきです。
また、憲法の精神は大事ですが、九条を守り、平和を祈っていれば平和が保てるわけではありません。日本はそうした「祈るだけの平和」ではなく、「創る平和」を目指すべきです。
「創る」というのは、途上国の開発や人道支援、国連平和維持活動(PKO)への積極的な参加を通じ、世界の安定化のために一汗も二汗もかくことです。
日本はこうした取り組みを通じ、21世紀が共生と共栄、和解と信頼の世紀になるよう努力すべきです。