じじぃの「人の死にざま_1620_ヘルムート・モルトケ(反ナチス活動家)」

Sabine Friedrich: Wer wir sind - Clip 3 - Freya und Helmut Moltke, Kreisauer Kreis 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Hjxx98cbUAo
モルトケの肖像をあしらった切手

死刑宣告を受けるモルトケ

ヘルムート・ジェームズ・フォン・モルトケ ウィキペディアWikipedia) より
ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵(Helmuth James Graf von Moltke、1907年3月11日 - 1945年1月23日)は、ドイツの法律家、伯爵。反ナチス抵抗運動に参加し「クライザウ・グループ」の中心人物となる。ゲシュタポにより逮捕され、処刑された。
第二次世界大戦が勃発すると、モルトケはカイザー・ヴィルヘルム外国公法・国際法研究所に勤務し、1939年9月6日からはヴィルヘルム・カナリス提督率いるドイツ国防軍防諜部に勤務した。モルトケの任務は、在外公館の駐在武官や外国の新聞から得られる軍事・政治的情報を集め、国防軍各部署に報じることであった。またモルトケは外務省と国防軍最高司令部との連絡官を務め、戦時国際法の問題を担当した。その際モルトケは反ヒトラー派のカナリス提督やハンス・オスター防諜部中央部長の援護を得ていた。2007年に公開されたイギリスの公文書によると、外務英連邦省は当時からモルトケの反体制的な意志を把握していた。しかしイギリスはドイツ国内の反体制派と共闘しようとはしなかった。ただモルトケオスロ司教を通じてイギリス側に渡した「白いバラ」メンバーのビラは、1943年7月にイギリス空軍によりドイツ上空から撒かれている。
モルトケ国際法に違反する命令を公然と批判したため、1944年1月にゲシュタポにより逮捕された。
【顕彰】
1964年、ドイツ連邦郵便はヒトラー暗殺計画の死去から20周年を記念する切手を発行した。またクラウス・フォン・シュタウフェンベルクモルトケの生誕100年を記念する切手が2007年に発行された。大戦中の妻への手紙は1989年にショル兄妹賞を受賞し、また2001年にはドイツ自衛権・人道国際法協会により、安全保障分野での貢献に贈られるヘルムート・ジェームズ・フォン・モルトケ賞が設立された。

                              • -

ヒトラーに抵抗した人々 - 反ナチ市民の勇気とは何か』 對馬達雄/著 中公新書 2015年発行
反ナチ抵抗市民の死と<もう1つのドイツ> (一部抜粋しています)
1944年7月20日に決行されたヒトラー暗殺の軍事クーデターは、ヒトラー生存の事実によってその日のうちに瓦解した。連携して決行されたシュテュルプナーゲル将軍たちのパリ、ウィーンでのクーデターも失敗した。同日夜11時過ぎのはベルリンでベッグの自決後、オルブルヒト大将、シュタウフェンベルグ大佐、副官ヘフテン、メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐の4人が処刑された。当日夜から幾度も予告されていたヒトラーの談話は21日午前1時から全国放送された。
     ・
モルトケは、1944年1月19日に逮捕されていた。《7月20日事件》の半年間に拘禁されていたということもあり、モルトケと事件の関わりやグループの存在にも気づかれていない。またドイツ人ならば誰でも知っているモルトケ元帥の末裔ということもあって、ベルリン北方11キロメートルのラーヴェンスプリュック強制収容所の独房生活にも配慮されていた。だが、《7月20日事件》以降、処遇は一変して過酷になったという。
一方、7月4日、5日に逮捕拘留されていたライヒヴァインとレーバーの処遇は、最初からきびしかった。彼らには、当初ゲシュタボが徹底的に壊滅しようとしていた共産主義者組織の嫌疑が向けられていた。だがクーデター事件後には尋問内容も変わった。
事件の調査責任者カルテンブルンナーが7月28日から毎週数回ヒトラーに提出する調査報告に、『カルテンブルンナー報告者』という文書がある。8月15日の報告者にはじめて「モルトケのグループ」という言葉が登場するが、19日の報告者ではライヒヴァインもこのグループとの関わりで言及されるようになり、25日の報告者になるとようやくモルトケをとりまく反体制グループ《クライザウ・サークル》の名前が出ている。さらに31日には「クライザウ・サークルのミュンヘン支部」と記述され、全体像も知られて逮捕の網が張られるようになった。
     ・
ペルヒャウは獄中のモルトケはじめ同志たちに、4ヵ月にわたりモルトケの妻フライアがクライザウから運んだ食料を密かに差し入れ、検閲を逃れた夫妻の日々の文通を仲介した(それは今日『テーゲル刑務所からの別れの手紙 1944年9月 - 45年1月』としてドイツ書簡文学の秀作となっている)。だが23日の午前11時、彼がフライアの手紙をモルトケに渡し、午後1時ごろ返信を受けとりに行ったときに独房は空になっていた。モルトケは12時ごろテーゲルからプレッツェンゼーに移送され即刻処刑されたのだという。数日して、ペルシャワがプレッツェンゼーの同僚神父から聞いたのは「ヘルムート・フォン・モルトケは落ち着きしっかりした足取りで、何か晴れ晴れした様子で死出の旅に発たれた」という言葉である。享年37。
モルトケはすでに前年10月11日、7歳の長男カスパーと4歳の次男コンラートに別れの手紙を書いている。その内容からすると、ナチス以後の時代に生きるわが子らに父の遺志をつたえようとしたものである。中心の部分はこうである。
  君たちにいっておきたいことがあります。父は学校で学んでいたときから、偏狭で暴力に訴える考えや不遜で寛容を欠く考えに反対してきました。そうした考えがドイツに根を張りナチ国家になって顕(あらわ)れ出たのです。それは暴力行為、人種迫害、信仰の否定、モノ中心の考えといった最悪のナショナリズムだったのです。こうした事態を克服しようと、父は一所懸命がんばりました。しかしナチスの立場からすると、そうした父は殺害せざるをえないことになるのです。
            (『テーゲル刑務所からの別れの手紙 1944年9月 - 45年1月』)