じじぃの「人の生きざま_553_ちば・てつや(漫画家)」

あしたのジョー 第62話 「生きていた力石徹」 part2 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uzG31qq41eA
ちばてつや
(morningmanga.com HPより)

ちばてつや ウィキペディアWikipedia) より
ちば てつや(本名:千葉 徹彌、1939年1月11日 - )は、日本の漫画家。2005年からは文星芸術大学教授を務める。2012年7月から日本漫画家協会理事長。東京府(東京都の前身)出身、現在は練馬区在住。日本大学第一高等学校卒業。
名作と呼ばれる作品を残した作家で、代表作に『あしたのジョー』(高森朝雄=梶原一騎原作)、『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』などがある。

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『私の「戦後70年談話」』 岩波書店編集部/編 岩波書店 2015年発行
飢えと寒さと絶望の<戦後>を生き抜いて ちばてつや (一部抜粋しています)
70年前、私は6歳でした。私が東京で生まれた年(1939年)に、両親に連れられて朝鮮半島へ、その翌年には満州奉天(現・中国遼寧省瀋陽)へ移住しています。父親は印刷会社に勤めており、私たちはその社宅で暮らしていました。社宅が立ち並ぶその一角は、高いレンガ塀で囲まれており、中国人居住区とは隔離されていました。日本人に対して中国人はいつも低姿勢で、日本兵が通るとさっと道をあける。そんな様子を普段から目にしていました。
ところが、日本の敗戦が近づくにつれ、中国人の態度が徐々に変わってきたのを、子ども心に感じました。それまで優しかった中国人のおじさんやおばさんの目が険しくなっていく。中国人の間に、日本が戦争に負けそうだという情報がすでに広まっていたようです。
そうした中で、1945年8月15日を迎えます。印刷会社の社員とその家族は工場長の家に呼ばれ、そこで玉音放送を聞いたといいます。戦争に負けるなど夢にも思っていなかった日本人たちは、ひどく動揺した。茫然自失となり夢遊病者のように社宅に帰る者、その場に泣き伏す女性たち……。子どもの目にも、ただならぬことが起きていることだけはわかりました。
その日の夕方、中国人街では、夏なのに爆竹が鳴り始めるなど雰囲気が急変します。それまで日本人に虐げられてきた中国人たちが、社宅の兵を乗り越えてなだれこんできました。棒や石を持ち手当たり次第に窓を割り、戸を蹴破り、中に押し入って家財道具などを奪おうとします。
その時、私の父親は不在でした。前年の夏ごろから兵役訓練のために徴収されていたからです。社宅に居たのは、母と私、それに弟が3人、弟たちは4歳と2歳、そして1番下は生後10ヵ月です。母親は私たちを押し入れの中に押し込むと、玄関に机や箪笥などを立てかけて外から入れないようにと必死です。それから2晩ぐらい、外では怒声や悲鳴、窓ガラスを割る音などが響き渡っていました。そうして1週間ぐらいが経ったでしょうか。兵役を解かれた父が、夜、やつれた姿で帰ってきました。
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その後、私たちは、印刷会社の一行がいる場所がわかり、屋根裏を出て再び合流。そして、46年の春ごろ、葫芦島(遼寧省南西部)から日本への帰還船が出るという話が伝わってきました。
私たちは歩いたり、牛車に乗ったり、時には列車に乗りつないだりしながら、奉天から約300キロ先の葫芦島を目指します。7月末になって、葫芦島から帰還船に乗って博多港に着くことができました。逃避行をはじめてから、すでに1年近くが経っていました。しかし、日本の土を踏んでから、千葉県の父親の実家にたどり着くまでが、また大変だったのですが……。
戦争で命を落とすのは、出征した兵士だけではありません。一般の人もたくさん死ぬ。そして戦時中だけでなく、戦後にも多くの人が亡くなる。満州からの引き揚げ時に、日本人は20万〜24万人が亡くなったといいます。私たちも常に死と隣り合わせでした。明日、生きている保障はない。過酷な逃避行の中での凍死、帰国をあきらめ、絶望して一家心中。兵士に頼んで自ら銃殺された人。やっと葫芦島に着いて、あるいは帰還船に乗って、日本医帰れるという安心感からか気が緩んで、そのまま息を引きとった人……。たくさんの「死」を目の当たりにしました。帰還船では、人が亡くなると腐敗して伝染病が広がるのを防ぐために、遺体を布にくるんで船尾から海に葬るのです。自分の家族が海に捨てられるのを見ながら、肉親の名前を叫び続ける人たちの声は今でも耳に残っています。飢え、寒さ、絶望に覆われた1年でした。戦争の本質は「勝ち負け」ではありません。勝ったとしても、そこには多大な犠牲が払われる。そして常に犠牲になるのは、子どもや、お年寄りなど、弱い人たちばかりです。