じじぃの「人の生きざま_541_瀬島・龍三(実業家)」

瀬島龍三の遅すぎる死  : 哲学の最期 <旧い知を往生させ、新しい知を>
大本営参謀であった瀬島龍三が死んだ。
百万単位の人間を殺す(自国民含む)ようなことを平気でやってのけた亡国の帝国陸軍。その参謀であった。
http://leben.exblog.jp/6112382
30分で分かる「不毛地帯」全19話 4/4 (最終話) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JFd2xCtccio
山崎豊子不毛地帯」主人公壱岐正=瀬島龍三の経歴 2013年12月3日 nozawa22 New!
山崎豊子不毛地帯」を読み始めて、シベリアでソ連の尋問される主人公の壱岐正の動静をもっと知りたいと痛感した。「不毛地帯」の中間報告として書いておきたいと思ったら、すでに、nozawa22で書いた部分があった。
http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/nozawa22-new-9c.html
瀬島龍三 ウィキペディアWikipedia) より
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職に就任し、政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれた。号は「立峰」。
義父は岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である。
ユーリー・ラストヴォロフ ウィキペディアWikipedia) より
ユーリー・ラストヴォロフ1921年 - )は、ソ連の職業的諜報員、軍人、チェキスト。中佐。
1950年、ラストヴォロフは、東京に戻り、二等書記官として麻布の駐日大使館に赴任した。日本では、主として在日米軍に関する情報の収集に従事し、アメリカ軍人が出入りするバー、レストラン、テニス・クラブに通った。目的は、アメリカ人協力者を得る事であったとされるが、このテニスクラブ入りが、皮肉にも、ラストボロフがアメリカ人に接近していると言う疑念を本国に抱かせ、後の亡命の一因になったと言われる。

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『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』 長勢了治/著 新潮社 2015年発行
夢に見たダモイ(帰国) (一部抜粋しています)
抑留された日本人にとって最大の関心事はいつ帰国できるか、だった。何としても生きて祖国へ還りたい、父母や妻子に会いたい、その一心で苦難に堪えた。ソ連を「わが祖国」と呼び、日本を悪い国だと蔑(さげす)んだアクチ−ヴさえ、心の底ではダモイを熱望していた。
逆にいうと、ダモイが見通せないことほど人を不安にさせ生きる希望を失わせることはなかった。多くの人はシベリアに抑留されたことがわかっても、長引かないだろうと楽観的な見方をしたがった。祖国が応援してくれることを心の頼りにして生きた。ソ連当局は「スコーラ・ダモイ(もうすぐ帰国だ)を連発してなだめようとしたが、数ヵ月たってもダモイは実現せず、次第に不安と絶望を感じるようになった。そのために無謀な脱走を企て、気が狂い、自殺する者さえ出てきた。シベリア三重苦に「帰国不安」を加えてシベリア四重苦と呼ぶゆえんである。
敗戦時の邦人の引揚げについてはすでに述べた。しかしソ連モンゴルに抑留された日本人についてはまったく情報がなかった。
ソ連共産党機関紙「プラウダ」は昭和20(1945)年9月12日、ソ連情報局の発表として日ソ戦で「59万4000人」の日本軍将校を捕虜にしたと、日本軍捕虜の存在を初めて報道した。だが詳しいことは何もわからなかった。
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ラストヴォロフ事件関係者36人のうち、逮捕勾留された5人はいずれも外務省関係者だった。このうち2人だけが起訴されて有罪(懲役8ヵ月)、1人は無罪、日暮信則は取調べ中に飛び降り自殺、志位正二は不起訴だった。ゾルゲ事件に匹敵する事件とまで騒がれたわりには竜頭蛇尾の始末だった(檜山良昭『祖国をソ連に売った36人緒日本人』)。
檜山良昭によると、事件関係者の中に予測されたような政府高官や日本共産党幹部はおらず、公務員、新聞記者、学者、民間人などであり、しかも大半はシベリア抑留経験者だったという。
早期帰国という甘い餌や「戦犯」指定という強迫のもとで協力の誓約書を書かされ、帰国後はそれを楯して協力させられていたのである。それでも、後述する赤羽文子のように少数ながら誘惑や強迫に屈せず誓約書への署名を拒否した人や、誓約書に署名したものの帰国後に協力を拒否した人がいた。
ラストヴォロフの供述によると、誓約書への署名した協力者=エージェントは300名ほどいたという。時事通信は平成23(2011)年8月13日の配信で、内務省の昭和25年の総括報告書で抑留者94人が帰国後にスパイ活動に協力させるエージェントとし徴募てされたとしていると報じた。果たしてスパイは何人いたのか、事柄の性質上、ソ連側の機密資料が開示されない限り真相は明らかにならないだろう。
瀬島龍三関東軍高級参謀であり、ジャリコーヴォの停戦会談に同行し、東京裁判ソ連側証人として出廷するなど、シベリア抑留では何かと話題になった人物である。瀬島についてはシベリア抑留密約説やソ連スパイ説のような疑惑が根強く流されている。
しかし、スパイとなった菅原は昭和22年に、志位は昭和24年に帰国していることからわかるように、「スパイに同意すれば早く帰す」が条件だった。そうでなければ帰国後スパイとして利用価値のある高い地位に昇進できないからだ。現に、「日本新聞」編集長だったコワレンコは、シベリア抑留者から徴募する「エージェントの条件は、まず頭が切れる人。そして帰国後高い地位に就ける人だ」とし、そういう人を早期に帰還するグループに入れたとインタビューで証言している(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』)。
瀬島は「戦犯」として長期間拘留され11年後に帰還しているが、対日スパイなら監獄で長々と無駄飯を食わせず早期帰国させたはずだ。瀬島は職業軍人と受刑者という人生経験しかないのに48歳という中年で伊藤忠商事に入社し、20年でトップの会長にまで上り詰める異例の出世を遂げたし、中曽根内閣でブレーンになるなど政治の世界でも活躍した。結果的には「帰国後高い地位」に就いたとはいえ、これをしもKGBの深謀遠慮とはいえまい。