じじぃの「人の死にざま_1336_岡田・嘉子」

岡田嘉子

岡田嘉子 ウィキペディアWikipedia)より
岡田 嘉子(おかだ よしこ、1902年4月21日 - 1992年2月10日)は、広島県広島市細工町(現:広島市中区大手町)生まれの女優、アナウンサー。
大正から昭和初期にかけて、サイレント映画時代のトップ映画女優であった。奔放な恋愛遍歴やソビエト連邦(現:ロシア連邦)への亡命など、波乱の生涯を送ったことでも知られる。
【日本帰国〜再びソ連へ】
1967年(昭和42年)4月に日本のテレビ番組のモスクワからの中継に登場。往年と変わらない矍鑠とした口調で話し、またも日本中を驚かせた。そして、東京都知事美濃部亮吉ら国を挙げての働き掛けで、1972年(昭和47年)、亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに帰国。
ソ連ペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と再びソ連へ戻る。
1992年、モスクワの病院で死去。89年の波乱に満ちた生涯に幕を閉じた。

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昭和 僕の芸能私史 永六輔/著 朝日新聞社 1999年発行
昭和13(1938)年 岡田嘉子ソ連亡命 (一部抜粋しています)
この年の初め、女優・岡田嘉子が演出家・杉本良吉と樺太(現サハリン)国境を越えてソ連に亡命している。
杉本は翌年銃殺されたが、彼女が34年ぶりに帰国した時に誰もが感動したのは、その格調の高い日本語だった。
「……でございますの」
「……でしたわ」
語尾が小津映画における笠智衆に答える原節子のような気品と優しさに溢れて、戦前の女性言葉を再認識させてくれた。
その岡田嘉子樺太で見送った人の話を聞いたことがある。
寒い冬に山梨県下部温泉の岩風呂で、見知らぬ老人と、その日の冷え方について話をした時だった。
「寒さといえば樺太はこんなもんじゃございませんでしたよ。
 若い時は樺太の国境警備をしていたんです。
 お正月でしたね。2人連れが国境を見たいというので、こちらも暇でしたから東京の話なんか聞きながら、雪の中を案内したんですよ。
 そうしたらいきなり手をつないで走りだしたんで、
 『おォい、戻れ、そっちへ行っちゃ駄目だ!』と叫んだんですが、そのまま国境を越えて姿が見えなくなっちゃって……。
 きれいな人だなと思いましたが、あれが岡田嘉子さん、女優さんとは知りませんでしたね。
 『そっちへ行っちゃ駄目だ!』と叫んだんですけどね」
岡田さんがモスクワで亡くなってからの話なので、「そっちへ行っちゃ駄目だ!」という声が聞こえたかどうか、確かめようがないが、あの老人はその後お元気かどうか。
念のためだが下部温泉は冷泉で、元湯に寒さに耐えて耐えて入っているうちのポカポカしてくるので、そんな話になった。
昭和10年代は新劇活動がアカと言われた時代で、多くの新劇人、作家、演出家が検挙されている。
杉本良吉が亡命を決意し、岡田嘉子が同行して、国境を突破するが、杉本がスパイ容疑で、翌年に銃殺された。この年の張鼓峰事件、翌年のノモンハン事件と、ソ連軍との衝突が続いていた頃だったのが不運だった。
ソ連軍は当時の新兵器「大型戦車」で満州国軍、日本軍を蹴散らかしていた時だから、きちんとした裁判もなく銃殺されたのだろう。
杉本は希望を求めてソ連に行ったのに……。
当時は雪が深かった。
そして今、地球は温暖化。

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