じじぃの「人の生きざま_536_江原・啓之(スピリチュアリスト)」

【心霊】江原啓之の超常現象解明スペシャ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TnMPvCx_QU0

江原啓之(1964-) 2010年1月21日 ニューズウィーク日本版
 「スピリチュアル(霊的な)」という言葉を使ってオーラや守護霊の存在を説き、「心霊」の恐ろしげなイメージを払拭するのに一役買った江原啓之
魂は再生し、現世は魂の学びの場であるという江原の考えは、女性を中心に広く受け入れられている。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/2010/01/1964-.php
江原啓之 ウィキペディアWikipedia)より
江原 啓之(えはら ひろゆき、1964年(昭和39年)12月22日 - )は、タレント、ワタナベエンターテインメント所属、作家、オペラ歌手(バリトン)。
吉備国際大学短期大学部客員教授、元九州保健福祉大学客員教授。自ら設立した一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事長、世界ヒーリング連盟元会員、関西二期会会員、英国スピリチュアリスト協会(SAGB)会員。東京都出身。妻と二人の息子がいる。血液型A型。

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2014年10月30日号 『週刊文春立花隆 「死は怖くない」 より
インターネットでも大きな反響がありました。ブログやツイッターで賛否両論を書きこまれています。「考えさせられた」というコメントが大半でしたが、中には激しく反発して、番組批判を展開しているサイトもあります。臨死体験を死後の世界の存在証明であるかのごとく扱い、死後の世界との交流を売り物にしている新興宗教の人々には不愉快だったのでしょう。何しろあの番組は、脳科学の最新の知見を踏まえて臨死体験は死後の世界体験ではなく、死の直前に衰弱した脳が見る「夢」に近い現象であることを科学的に明らかにしたからです。
意外だったのは、感謝の気持ちを私に直接伝えてくれる人がかなりいたことです。高齢の女性が多かったのですが、呼び止められて「ありがとうございました」とよく声をかけられました。これまで何本も大型ドキュメンタリー番組を作って来ましたが、今回のように放送後に街で会う視聴者から直接お礼を言われた経験は記憶にありません。
感謝してくれた人たちは、おそらく番組のエンディングで私が述べた「死ぬのが怖くなくなった」というメッセージに共感したのだろうと思っています。
「死ぬのが怖くなくなった」といっても、「死後の世界は存在する。だから死は怖くない」と科学的な根拠もなく声高に断定する人たちもいます。最近、日本で評判を集めている東大医学部附属病院救急部の矢作直樹氏のような例です。最近彼は週刊誌で、TVの怪しげな番組に出まくって霊の世界がどうしたこうしたと語りまくる江原啓之なる現代の霊媒のごとき男と対談して「死後の世界は絶対にある」と意気投合していましたが、これが現役の東大教授かと口アングリでした。ああいう非理性的な怪しげな世界にのめりこまないと、「死ぬのが怖くない」世界に入れないかというと、決してそうではありません。ごく自然に当たり前のことを当たり前に、理性的に考えるだけで、死ぬのは怖くなるということをあの番組で示せたと思っています。

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『悪意/善意 たましいの素顔』 江原啓之/著 小学館 2008年発行
「善なるたましい」の秘密 (一部抜粋しています)
たましいの存在を信じずに、どうやって心の安らぎを得ているのか、私には不思議です。この世には目に見えるものだけが存在し、私たちは死んだら無になってしまう。そう考えると、生きることそのものがあまりにも刹那的になってしまわないでしょうか。
たましいは永遠であり、私たちは自らのたましいの進化・向上のために、懸命に旅をしている存在である。そう考えることで、ではどうやってこの旅を充実させようか、たましいを輝かせる生き方とはどういうものか、そう考えることができると思うのです。
「霊能力者と称する輩に騙されるのが怖いから、用心している」という人もいるかもしれません。もちろん、選択は個人の自由ですが、スピリチュアリズムは、現世を生きるのにとても役立つ哲学です。玉石混交だからといって、玉も石もいっしょに否定してしまうと、貴重な玉をも捨てることになりかねません。
霊能力は、特別なものではありません。スポーツの得意な人がいるように、スピリチュアルな世界を感じやすい能力があるというだけのことで、個人の能力のひとつです。その能力のない人にとっては、「ウソだ」と思ってしまうようなことでも、能力のなる人にとっては、当然のこと、というケースはよくあります。
「目に見えないものは、科学的ではないから信じない」と言う人がいますが、では、心はどうでしょう。心は目に見えません。
心=脳だと考えた人もいますが、それでは心理学者も精神医学者もいらないということになります。脳科学に基づいた外科的手術だけで、この世の悩みや苦しみが解決するでしょうか。答えはNOです。『カッコーの巣の上で』という映画でも表現されていますが、脳の一部を取り去ることで精神疾患を治療しようとするロボトミー手術は、結局失敗に終わりました。心=脳では決してないのです。
では、心とはどこにあるのでしょう。科学でもわかりません。わからないからといって、人に心があることを否定できますか? 誰にもできません。
人間という存在を、科学だけ、目に見えるものだけで解明することなどできないのです。
「わからないもの」はこの世に数限りなくあります。それを解明しようとする科学の営みは大切です。私は科学を否定するつもりなど毛頭ありません。
けれど、「わからないもの」に対して、「わからないから、ないものとする」のではなく、「わからないものは、わからない」という前提で考えていくことこそが、真の科学的な態度ではないかと思います。
本物の科学者は、常に柔軟です。「わからないもの」に対して、知ったようなことを言わないし、頭から否定したりもしません。
自分には霊は見えないから、なんとも言えない。けれど、うなずける部分はあるし、全否定することはできない。そういう態度で臨む人こそが、優れた科学者と言えるのではないでしょうか。
そして、さまざまな科学の分野、たとえば最先端の生命医学や宇宙理論、量子力学などを突きつめていくと、みんな「わからないもの」に突き当たります。たとえば、分子レベルでの私たちの存在そのものや、「宇宙」の成り立ち、そして「神」という存在……。現段階では解明できないものは、数限りなくあるはずです。
宇宙飛行士として宇宙へ行った人の数パーセントは、宗教的な世界観に目覚めるともいわれています。つまり科学も、突きつめていけば、「信仰」に近づいていくようにも思えるのです。
「科学で証明できないから、信じない」――そういう態度で生きることによって失うものの大きさに、早く気づいていただきたいと思います。