じじぃの「神話伝説_134_悪人・汝の敵を愛せ(キリスト教)」

Love your enemies 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RpkPatxQCR4
『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』 フランチェスコ・アルベローニ/著、大久保昭男/訳 草思社 1999年発行
悪人とは より
道徳は、愛ややさしさ、いたわりの心、寛大さ、利他主義などに関係がある。また、それは威厳や力をもっているので、評価や尊敬を促すものとも関係がある。人類は、その歴史のなかでさまざまなことを行なってきたが、美徳と悪徳は、実際には、ここ3千年の時の流れのなかでは、ほとんど変わっていない。
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真に道徳的感情は、自己と他者を理解し、自己と他者を区別しない。それはたんに、不公平な判断をせず、公平でかたよらない態度をとるからではなく、悪意の行為が、現実世界の誰にでも起こりうる異常でであり、私たちが犯すかもしれないものであることを理解しているからである。
真正の道徳性が他者の悪を見てとるのは、そうした道徳性を私たち自身が身につけたあとにおいてである。道徳的な感情とは、誰かへの非難になる前に、自責の念であり、苦悩なのである。道徳的な感情によって、私たちは現実世界の苦しみを感じ、この世界の悪意を感じとる。だから、他者の悪意は、まだ他者のものとしてとどまってはいても、私たちにはまったくかかわりのないものとは思えない。それは敵対者の悪意ではない。その時点で、突然、姿を現わす存在の悪意であり、事物の、人間の悪意なのである。
キリスト教徒は、人間の悪が「神を苦しめる」というイメージを用いる。事実、キリストが十字架にかけられたのは、この世界の悪のためである。それはキリスト教徒の両手、両足、そして脇腹にある聖痕という形で現れる。神の傷として、大きな苦悩として現れる。
道徳的感情の前提は愛である。「汝の敵を愛せ」という戒律は、勇敢な、過激な戒律ではまい。それは、道徳的感情をもつことを可能にするものである。
他者が私の敵対者になるとき、その人物は私が戦い、打倒しなければならない非道で邪悪な存在に替わる。私がその人物に有利になるようにごく控えめに行動するためには、そして私が彼の権利を認める――あらゆる道徳の基本的姿勢――ためには、たとえ一時的にせよ、自分の嫌悪感をとり消さなければならない。その人物を、自分が所属している共同体の一部として考えねばならず、したがって、自分の敵ではなく、愛すべき誰かと考える必要がある。汝の隣人を愛せというのと、汝の敵を愛せというのは同じことなのである。
愛だけが迫害者と犠牲者を結びつけ、区別のないものにする。もし仮に、迫害者が犠牲者を愛しているならば、彼は犠牲者に突きたてた牙を自身にも突きたてるだろう。
では、悪人とはなんなのか。悪人は存在しないのだろうか。いや、悪人がいることは確かである。しかも、ある者たちは明白に悪人であり、そうであることを誇りとし、自らが引き起こす苦悩に幸せを感じる輩(やから)である。彼らの立場をどのように正当化し、どういう高潔な動機を与えることができるのだろうか。それはたんに、テロリスト、拷問人、強姦者といったものに限らない。悪の要求は拡散し、日常的となり、憎悪や嫉妬、怨恨や復讐、あるいはまったくの支配欲、蹂躙の要求として現われる。
しかり、悪は存在する。私たちのなかにも存在する。私たちは禁欲的な所業や意志的な行為によって、それを除去することはできない。しかし、少なくとも、それを認識し、そういうものとして指摘することを習得する。それを賛美しないことを取得する。