じじぃの「人の死にざま_1548_ヘンリー・ローリンソン(オリエント学研究者)」

〔世界史・古代オリエント〕 古代ペルシア(ササン朝まで) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TkXpq_45DGw
イラン西部ザグロス山脈中の碑文

ジャン=フランソワ・シャンポリオン ウィキペディアWikipedia)より
ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-Francois Champollion、1790年12月23日-1832年3月4日)は、フランスの古代エジプト学の研究者。ロゼッタ・ストーンを解読し、ヒエログリフ古代エジプト象形文字)を解明したことで知られ、「古代エジプト学の父」と言われている。
ヘンリー・ローリンソン((初代準男爵 ウィキペディアWikipedia)より
初代準男爵サー・ヘンリー・クレズウィック・ローリンソン少将(Sir Henry Creswicke Rawlinson, 1st Baronet GCB、1810年4月5日 - 1895年3月5日)は、イギリス東インド会社の陸軍士官、政治家、東洋学(オリエント学)研究者で、「アッシリア学の父」と称されることもある。ローリンソンは、南アジアに対するロシアの野心を、イギリスは牽制すべきだという議論を展開した最も重要な論客たちのひとりであった。

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『歴史随想パッチワーク』 犬養道子/著 中央公論新社 2008年発行
2人の少年――16歳と17歳 (一部抜粋しています)
1806年、それまでの900余年つづいた神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体された激動の年。そんな国際情勢にはほとんど無関心のひとりの少年が、何日も何日も、「不思議なもよう」を白く浮き立たせている黒い紙を見つめて動かなかった。東洋では拓本と呼ばれ、石に彫りつけられたもようや文字の上に墨をなすりつけ、髪をあてたのち剥がし取り、白く浮かび上がった部分を読めるようにする手法。
少年は16歳。場所はフランス東南部の、俗に前衛アルプ地帯と呼ばれる、イゼール河に抱かれ、もっと東南にゆけばメージュ3990メートル、エクラン4200メートル足らずのいわゆるフランス・アルプスの巨峰の並び立つ景観を、アルプス独自の森林や谷川もろともひろげてみせてくれる地方の首都・グルノーブルの町。北すれすれには名高い学問修道会シャルトルーズが11世紀末このかた数百人の修道士を抱えて、学問・美術・文化一般を以て人々に影響を与えつづけて来た町。並ならぬレベルを保つ大学も美術館も図書館もかかえていた。16歳の少年が今日の高等学校ていどまでの教育を受けたのが、このシャルトルーズの伝統を背負うグルノーブルにおいてであった。家計についてのくわしいことはよくわからないが、学問好きの中産階級上クラスに属していたことはたしかである。
少年の見つづける拓本は3部に分けて書かれていたが、最上段数行には、ライオンの座像あり、曲がったナイフの形あり、こちらをじっと見ているふくろうの顔あり……少年は確信していた。「これは文字だ。必ず読む。ぼくが解読する」。粘りと根気の学問はスタートしていた。
彼の名は、ジャン・フランソワ・シャンポリオン(1790〜1832年。以下JF)。幼児から異常とも呼べる言語習得の天才で、ヘブライ、アラビア、エチオピア、ペルシア、ギリシャ、さては中国古代文字まで、文学まで、ひとたび眼に入れ意味を知れば、二度と忘れず頭にしまいこんでどの言語でも自由に読み書きできる能力にめぐまれていた。
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ちょうどそのころ。
メソポタミアのいまのイラクから、かなり東に位置するイラン(ペルシア)の北方に、政治軍事の理由で駐屯していた英国人のひとりH・G・ローリンソン(以下R。1810〜1895年)という、すでに古代ペルシア史家として知る人ぞ知るハンサムな士官(わずか17歳であった)が、ひまさえあれば、北西イランのザグロス山中、520メートル標高の垂直の岩山最上部の、明らかに人手によって磨がきぬかれた一面に、幅18メートル、高さ33メートル、びっしりと刻みこまれている「文字」を見つめていた。「謎の記号」として多くの人々の関心を惹きつけていた「文字群」である。Rはそれを読もうと決心した。のちに楔形文字(くさび形文字)と呼ばれることになるそれを。ちなみに、このツルツル石を抱くザグロスもまた、北緯30度のすれすれ! しかし、どうやったらツルツルの岩肌にとりついて、まず拓本をとることができるだろうか。
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17歳で眼をつけ、25歳のとき本格的にはじめたザグロス山中ツルツル岩の文章解読は、そののち37年もの歳月を経てやっとの思いでなしとげられることになる。
「謎の文章」の正体は、Rが見当をつけていた通り、紀元前500年ごろのもの、「偉大な王ダリウス」の事蹟記述で、王国内のすべての人――アッカド人、バビロニア人、ペルシャ人、アッシリア人――にわかるように3種類の言語が使われていたのであった。「王ダリウスのことば。この刻文をこわすことなかれ……」。37年間、来る日も来る日も心血をそそいで見つめては分析し、まちがっては、あと戻りして、ついに読んだ……しかし、文字数がうんと多いエラム語やアッカド語での部分の解読は、彼に続く学究たちによって、Rの成功ののち10年もの歳月がかけられねばならなかった。
さまざまの多くのことが、Rの仕事、JFの仕事によって、驚くばかりに明らかにされたことはくり返す記す要もないが、第1に大切なことは、この2人の登場以前には、「読める」古代中近東文学・宗教・歴史書は、紀元前ほぼ500年に最重要部分最終執筆(ヘブライ語)された「唯一の古文書・歴史書」すなわち旧約聖書だけだったこと(注・じゃあ、旧約の言語ヘブライ語は、どうして大昔から読むことが出来たのか。ドラマがこの事実を支えているが、いまはさしおく)。近世に入ってのち信仰ばなれの「学のある人々」がきめこんだような、「迷信過剰の古代のつくりばなし」が旧約聖書」では決してなかったと次第にわかって来たこと。聖書執筆者たちは、エジプトの不思議な絵文字やザグロス山出土の楔形文字によってのこされている、「古代文字」の原型及び様式を「借りながら」神から託された大切なものごとを書いていたのであった。