じじぃの「人の死にざま_1542_グリム兄弟(童話・文学者)」

200 Jahre Kinder- und Hausmarchen Bruder Grimm 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_nBtZlBJ72Y
グリム兄弟

グリムの森「グリムの館」:施設案内〜はじめに〜
この森や建物の名前にもなっている「グリム」とは「グリム童話」「グリム兄弟」の「グリム」です。
「グリム兄弟」は1800年代に活躍した政治家であり、学者であり、文学者であった兄弟のことを指しています。
兄のヤーコブは1785年1月4日、弟のヴィルヘルムは翌年2月24日にドイツのヘッセン州ハーナウに生まれました。ふたりは、早くに亡くなった父親の代わりに弟妹たちを支えながら、立派な業績を残しました。 グリムの館外観
グリム兄弟は、ドイツの伝承昔話を後世に残そうと、身近な女性たちから昔話を聞き、それを文章にしました。その時の題名は「Kinder - und Hausmarchen」といい、日本では「子どもと家族のための童話」と訳されています。
http://www.grimm-no.net/01sisetsu.htm
『誰も書かなかった 世界史「その後」の謎』 雑学総研 中経の文庫 2014年発行
仲良く大学教授となって、ともに免職したグリム兄弟 より
ヘンデルとグレーテル」「赤ずきん」「ブレーメンの音楽隊」「白雪姫」などの話を収録した『グリム童話』。正式な題名は『子どもと家庭のメルヒェン集――グリム兄弟によって集められた』といい、初版が刊行されたのは1812年のことである。
この『グリム童話』を著したのがグリム兄弟で、兄をヤーコブ、弟をヴィルヘルムという。2人は年子(としご)で、兄のヤーコブは元気で活発な性格の一方、弟のヴィルヘルムは物静かで病気がちという好対照な兄弟であったが、2人は仲が良く、ともに切磋琢磨してメルヒェン(メルヘン。おとぎ話・昔話・童話などの総称)を収録することに力を注いだ。
グリム兄弟が編んだ『グリム童話』の特徴は、当時の民衆に伝わっていた話をもっとも口伝えに近い形で収録していることである。
それはとくに初版(最初期)において見られる傾向で、デンマーク童話作家アンデルセンの著す、美しく整った文章から成り立つ作品との違いはそこにあるといえる。
さて、『グリム童話』の初版刊行以降、何度も反を重ねて人気を博していたグリム兄弟は、その後も兄弟仲良く行動をともにしている(グリム兄弟にはほかに3人の弟と1人の妹がいた。末弟・ルートヴィヒとはのちに同書の挿絵を描いている)。
中でも象徴的な事件が、1837年に起こった出来事で、このときともにゲッティンゲン大学で教授として務めていた2人は、ハノーファーの新たな国王が憲法を破棄しようとしたことに抗議したことがきっかけで同職を免職、つまりクビになってしまうのだ。
だが、いわゆるこの「7教授事件」(2人を含む7人の教授による抗議事件)後、高校時代からの馴染みのある街・カッセルへと舞い戻り、『グリムのドイツ語辞典』ぼ政策に着手するが、これは失職した2人を国民が支援するためのもので、この制作の契約を結んだことで2人の生活は安定することとなった。
なお、同書は2人の存命中はまったく完成のめどが立たず(Fの項目までしか仕上がっていなかった)、完成したのはなんと1961年というから驚きだ。制作開始から123年が経っていた。
その後、『グリム童話』は何度も版を重ねながら出版され、教訓文字が流行していた時代の流れに伴って次第に教訓話へとテイストを変えていった。「人間なんてこんなものですよ」というお決まりのセリフが登場するのは第5版からで、1843年以降のことである。
仲の良い2人はその死も4年しか違わず、病弱な弟・ヴィルヘルムが1859年12月に73歳で亡くなり、4年後の1863年9月に兄・ヤーコブが78歳でこの世を去っている。兄の最後を看取ったのは弟の妻・ドルトヒェンであった。