じじぃの「神話伝説_104_ものみなこぞりて(賛美歌)」

All Creatures of our God and King (Lasst uns Erfreuen) 動画 YouTube
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ものみなこぞりて(讃美歌75番) 動画 YouTube
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【アシジの聖フランシスコ】ブラザーサン・シスタームーン【太陽の賛歌】 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VmZVD_x7T8I
『賛美歌・聖歌ものがたり―疲れしこころをなぐさむる愛よ』 大塚野百合/著 創元社 1995年発行
聖フランチェスコと聖クララ 「ものみなこぞりて」 (一部抜粋しています)
人類の歴史において聖フランチェスコほどイエスを心から愛して、すべてを捨てて従った人は珍しいと思われます。彼こそは、ほんとうにイエスを知っていた人物です。このような彼が作詞した「太陽の賛歌」に基づいて創られたのが賛美歌75番「ものみなこぞりて」(聖歌86番、教会賛美歌156番、古今聖歌第356番)です。賛美歌の邦訳は、ダンテの『神曲』の訳者である中山昌樹がイタリア語から訳しました。
この歌に配されている曲は「聖フランシス」、または「いざわれら喜ばん(LAST UNS ERFREUEN)」と呼ばれる名曲です。1623年に出版されたドイツ語の賛美歌集に紹介された曲で、作者は不明ですが、民謡に基づいているという説と、マテウス・グライター(1490〜1550ごろ)の曲の影響を受けたらしいという説があります。
この聖人の歌で現在歌われているのはこの1編だけですが、彼の生き方そのものが、賛美とはなんであるかを雄弁に物語っています。彼は1182年にイタリアのアッシジの裕福な毛織物、絹織物証人の家に生まれ、18歳まで町の若者たちのアイドル的な青年として、青春の喜びに浸る生活をしていたのですが、一方で心に深い空虚を感じ、ほんとうの生きがいを求めていました。しかし、彼がまだ騎士になる夢に取りつかれていた23歳の時、スポレットというところで病気のため床に伏せていると、神の声が響きました。「主である私に従え、アッシジに変えれば、そこでなすべきことが告げられる」という声でした。この時から彼の人生は大転換をみます。アッシジの近くのサン・ダミアノ聖堂で礼拝をしていたとき、荒れたこのお堂を修理するようにという声が聖十字架像から聞こえ、彼は自分の家から金めの反物と馬を持ち出し、金に替えて、この聖堂を修復しました。そのときまだ彼には自覚がなかったのですが、神は、霊的に腐敗して危機に瀕していた教会を建てなおす大事業を彼に託そうとしておられたのです。
ほんとうの意味でフランチェスコが自分の使命を発見したのは、1209年2月24日の聖マティアの祝日ミサにおいてです。そのとき、マタイによる福音書10章9節〜13節が読まれ、その中の次の言葉に衝撃を受けました。イエスが12人の弟子を派遣する時に言われた命令です。
「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」。この言葉のなかに、彼は神が彼に与えられた特別の清貧の命令を感じとり、これこそ、これから自分が進む道であると直感して、即座に履物と杖を地面に投げ捨てました。
29歳のとき、彼は「小さき兄弟」と名乗る托鉢を旨とする修道会をつくり、アッシジの西南に位置するポルツィウンクラを拠点にして、伝道に励みました。翌年には、彼の生涯にとって重要な意味のある出来事が起こりました。アッシジの貴族の娘である18歳の美しいクララが世俗の生活を捨てて、彼に従い、聖ダミアノ修道院に住んだのです。彼女は、死の時まで、その修道院の外に出ることがなかったと言われています。このクララを中心として第2修道会が生まれました。彼女は、神の次にフランチェスコを心の支え、慰めとし、彼に従って清貧を旨として生きました。
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それでは、なぜ彼の心にこのようにまでイエスを思う心が生まれたのでしょうか。それは彼の深い罪の自覚から生まれました。自分は、もっと罪深いものであると心の底から信じていました。彼の伝記を読んで、いつも不思議に思うのはこの点です。彼は自分の罪にいつも涙を流していたと言われています。これが晩年に失明した原因であるというのです。そのため彼は、この自分の罪を十字架で贖(あがない)いたもうたイエスを、何と貴いお方かと魂の底から感じていました。そこから、溢れる賛美が彼の心に湧いてきました。道を歩きながら弟子たちと神を讃える歌を歌うのが常でした。そしてその偉大な神が創られた森羅万象を数え上げて、神を讃えたのです。
彼の有名な「太陽の賛歌」は、彼が43歳になり肉体的に極度の苦痛に襲われているときに生まれました。罪を悔いる涙で目を悪くしていたところに、東方の旅でトラホームにかかったことが禍いして、ほとんど失明状態にありました。