名言・格言の活かし方〜早川徳次〜 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OUTm7J4Dh6o
早川徳次
シャープペンシル
早川徳次 (シャープ) ウィキペディア(Wikipedia)より
早川 徳次(はやかわ とくじ、1893年(明治26年)11月3日 - 1980年(昭和55年)6月24日)は日本の実業家・発明家。総合家電メーカーシャープ創業者。シャープペンシルやバックル「徳尾錠」の発明で知られる。
東京府(現・東京都)出身。大正三美人として知られる江木欣々は異父姉。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『教科書には載っていない大日本帝国の発明 世界を驚かせた33の発明秘話』 武田知弘/著 彩図社 2015年発行
シャープペンシルの発明 (一部抜粋しています)
芯が短くなると手元の操作で芯を繰り出すことができる機械式鉛筆「シャープペンシル」。使うたびにいちいち削らなくてはならない普通の鉛筆に比べて、便利なことこの上ない。
このシャープペンシルの実用モデルのものを初めてつくったのも、大日本帝国時代の日本人である。
発明者は早川徳次。日本を代表する家電メーカー、シャープの創業者だ。
早川徳次は、明治26(1893)年に東京日本橋の職人の家に生まれた。
父の政吉は、ちゃぶ台などの製造販売を家業としていた。母・花子の実家は麹町で袋物問屋を営み、大名に公金のご用達をしていたような立派な商家だった。
しかし、徳次はこの両親から育てられることはなく、不遇な幼年期を送る。
明治28(1895)年、徳次は満2歳の誕生日の1ヵ月前に、母緒が病気がちだという理由で、生家に出入りしていた肥料業を営む出野家に養子に出された。
出野家は貧しいうえに、徳次に冷たかった。
養子に出されてから2年後、養母が急死すると出野家は後妻を迎えた。
その後妻が徳次にきびしく当たったのだ。
明治33(1900)年、徳次は小学校に入学したが、学校から帰ると継母に命じられ、毎晩遅くまでマッチ箱貼りの内職をした。学校にも次第に通わせてもらえなくなり、結局、2年で中退してしまった。
そうした境遇を見かねて、近所の人が年季奉公の世話をしてくれた。徳次を受け入れたのは、東京の本所(現・墨田区)にあった錺屋(金属細工業)の坂田芳松だった。
坂田は徳次の腕を見込んで重宝した。徳次もそれに応えるように熱心に働き、金属細工の技術を吸収していった。
徳次は細工の技術だけでなく、発明家としての才能も早くから発揮していた。それがよく現れているのが、明治45(1912)年に考案した穴を空けずにベルトが締められるバックル「徳尾錠」だろう。
徳次はほかにも、洋傘の付属品金具の石突きに文様を入れる方法なども実用化させている。
同じ年の9月、徳尾錠の大口注文をきっかけに、徳次は本所の松井町に民家を借り、金属加工業者として独立した。
翌年には水道自在器(蛇口)も発明。徳尾錠と水道自在器の2つのヒット商品により、業績は拡大し、事業は一気に軌道に乗った。
そんな中、徳次に新たな転機が訪れる。
大正4(1915)年、徳次の工場に繰出鉛筆の内部部品を製造してほしいという依頼が舞い込んできたのである。
繰出鉛筆というのは、その名の通り、芯を機械的に繰り出す筆記具のことで、シャープペンシルの原型とでもいえるようなものである。
部品を製造する中、繰出鉛筆の構造を理解した徳次は、その改良型の製作を始める。
当時の繰り出し鉛筆は、重要な部品が複数の金具を組み合わせて作られているなど、構造が複雑で故障も多く、実用的とはいえなかった。
徳次はそれらの部品を1枚板の真鍮を加工して作り欠点を克服すると、繰出鉛筆にさらなる改良を加えていった。
それまでの繰出鉛筆は、出した芯は指などで押えないと元に戻すことはできなかった。徳次はそれを繰り出し用のネジを逆に回転させると自動で芯が収まる仕組みにした。また芯を最大限まで繰り出すと自然に外れてとれるように工夫した。そうして現代のシャープペンシルにつながる早川式繰出鉛筆が誕生したのである。
この発明を契機に、徳次は生き別れになっていた兄の政治とともに、早川兄弟商会金属文具製作所を設立する。
しかし、早川繰出式鉛筆は思うようには売れなかった。徳次らはそれでも粘り強く販売を続けた。
すると思わぬところで火が点く。海外に輸出された徳次の繰出鉛筆が、第一次世界大戦でモノが少なくなっていたヨーロッパで流行。その評判を知った三越や白木屋、松坂屋などの百貨店から大口の注文が入るようになったのである。
徳次は繰出鉛筆にさらなる改良を加え、「エバー・レディ・シャープペンシル(先端が常に尖っている鉛筆)」と名付け、アメリカなど諸外国で特許を取得。数年後に名称を「シャープペンシル」に改めた。
シャープペンシルの大ヒットを受け、早川兄弟商会は工場を拡張。当時珍しかった流れ作業を採り入れるなど、効率的に観察できる態勢を作り上げた。業績は右肩上がりで、200名もの社員を雇うまでになった。
しかし、そんな矢先に徳次を不幸が襲う。関東大震災で工場が被災、妻と2人の子どもを失い、シャープペンシルのすべてお特許も借金返済のために手放さざるを得なくなったのだ。
しかし、それにめげる徳次ではなかった。
徳次は新たに早川電機を創業すると、国産1号の鉱石ラジオ製造で大躍進を遂げる。そして早川電機を戦前の時点で国内有数の電機メーカーになるまでに成長させた。
早川電機は昭和45(1970)年に社名を変えて、シャープになった。