じじぃの「人の死にざま_1518_屋井・先蔵(乾電池の発明者)」

baghdad battery 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MlFZ4h4RUwE
 屋井乾電池 平角三号

時計から誕生した世界初の乾電池 屋井乾電池
湿電池(Wet cell)としては、ラーランド、ルクランシェなどがあり、 これらの電池の近代史は西洋から始まりました。 一方で、乾電池(Dry cell)を発明したのが日本人で、 東京物理学校(現在の東京理科大学)に通った屋井先蔵であることはあまり知られていません。
http://www.kodokei.com/la_014_1.html
屋井先蔵 ウィキペディアWikipedia)より
屋井 先蔵(やい さきぞう、1863年1月13日(文久3年) - 1927年6月)は乾電池の発明者である。
東京物理学校(現:東京理科大学)の実験所付属の職工として専門知識を学んだ。そしてついに独自の屋井乾電池を発明した。しかし、国内的にはあまり注目されず、むしろ万国博覧会出品で乾電池の存在が国際的に認知されることとなったが、発明者が屋井先蔵であることが知られるのはしばらく後の事になった。

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スパニチ!! 「クイズウォーズ」 2014年6月21日 TBS
【天の声】高橋茂雄 【出演者】大久保佳代子春日俊彰神保悟志、デニス植野、前川泰之眞鍋かをり
▽日本人が発明したものを斬れ!
乾電池は? カーナビは? 留守番電話は? ペットボトルは? インスタントラーメンは?
http://www.tbs.co.jp/program/spanichi_201406211400.html
『教科書には載っていない大日本帝国の発明 世界を驚かせた33の発明秘話』 武田知弘/著  彩図社 2015年発行
乾電池の発明 (一部抜粋しています)
ラジオ、電卓、シェーバーなど、多くの小型家電に使われている乾電池。この乾電池を発明したのが日本人であることをご存知だろうか?
しかも、それは最近のことではない。今から100年以上も前の明治時代のことなのだ。
乾電池を発明したのは、屋井先蔵という時計職人である。
屋井先蔵文久3(1863)年に、越後国長岡城下(現・新潟県長岡市)の武士の家に生まれた。屋井家は代々三百石余りの禄を奉じる上級武士だったが、先蔵が6歳のときに父が死亡。さらに明治維新によって家は没落し、母とともに、叔父に養われる身となった。
早く一人前になりたかった先蔵は、15歳の春、自ら申し出て長岡の八島という時計店に年季奉公に出た。先蔵は時計職人が性に合っていたようで、方向をして1年後には簡単な時計の修理くらいは難なくこなせるようになった。
先蔵は時計店で働く中で、ある大きな目標を抱くようになる。それは永久自動機械の発明である。永久自動機械とは、ネジなどの動力を必要とせず、永久に働き続ける機械のことだ。
だが、専門的な教育を受けたわけではないため、知識が圧倒的に不足していた。発明のためには専門的な教育を受ける必要があることを痛感した先蔵は、進学を志すようになった。
明治17(1884)年、7年の奉公を終えた先蔵は、上京をして進学のための猛勉強を始める。しかし、目標の学校の入試に失敗。翌年も再び挑戦するが、5分遅刻してしまったために受験すらさせてもらえなかった。
進学を諦めた先蔵は、叔父の経営する工場で職工として働き始めた。だが、依然として発明にかける情熱は失っておらず、仕事の傍ら、研究を続けていた。
そして3年後の明治22(1889)年、先蔵はついに大きな仕事を成し遂げる。「電気時計」の発明である。
当時も電気を使った時計はすでに存在していたが、時計の動力源となるゼンマイを電気で巻くといったものが多かった。先蔵の「電気回路」は自作の電池を組み込み、すべてを電気で動かすという画期的なものだった。
先蔵は特許を出願し、2年後に農商務省特許局(現・経済産業省特許局)に認められ特許登録された。これは日本の電気に関する特許第1号だった。
しかし、せっかく特許をとったというのに、「電気時計」はまったく売れなかった。
先蔵はその原因が時計に組み込んだ電池にあるのではないか、と考えた。
当時の電池は、塩化アンモニウム液などを電解液として利用する仕組みになっており、電池の中に”液体”が入ったものだった。この”液体電池”は持ち運びが不便の上に、冬は凍ってしまうという扱いづらいものだった。
そのうち先蔵は、液体を使わない乾いた電池、つまり”乾電池”をつくれないものか、と考えるようになる。
明治18(1885)年、先蔵は東京市下谷御徒町(現・台東区台東)の裏長屋に実験室を設けて発明を開始した。昼は働き、夜は電池の研究という日々を送った。1日の睡眠時間は3時間程度だったという。何百回もの試行錯誤を繰り返して、やがて塩化アンモニウムを紙に染み込ませることで”液体”からの脱却に成功。そして、ついに乾電池を完成させたのである。
先蔵が乾電池を発明した正確な日時は定かではないが、明治20(1887)年ごろ、遅くとも明治22(1889)年には完成させていたとされている。
このとき、先蔵は特許を申請していない。
当時は特許の申請には高額の手数料がかかった。先蔵にはその資金がなかったのだ。
また、「電気時計」の一件で特許をとったからといって、必ずしもお金儲けにつながるわけではないことが先蔵には痛いほどわかっていた。それらの理由から、特許をとらずに放っておいたのである。
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世界の電気史の中では、乾電池の発明者に屋井先蔵の名前は出てこない。しかし、彼が乾電池を最初に発明したのは紛れもない事実であり、乾電池は日本が誇れる大発明だといえる。