じじぃの「人の死にざま_1525_ギュスターヴ・エッフェル(技師)」

Tribute to Gustave Eiffel 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eniverVh3qU
エッフェル塔の建造

ギュスターヴ・エッフェル ウィキペディアWikipedia)より
アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832年12月15日 - 1923年12月27日)は、フランスの技師、構造家、建設業者。一般にはエッフェル塔を設計した人物として知られる。エッフェルはコンテストへのプラン提出責任者、その建設を受託したエッフェル社の代表であった。ガーターベルトの原型の発案者として、また航空力学の研究発展に寄与したことでも知られる。

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『世界を変えた100日 - 写真がとらえた歴史の瞬間』 ニック・ヤップ/著、村田綾子/訳 ナショナルジオグラフィック社 2008年発行
1889年5月6日 エッフェル塔、公開 (一部抜粋しています)
パリ万博博覧会の開催を5年後に控え計画が練られていた1884年、フランスの社会情勢は最悪だった。71年の普仏戦争での敗北に続く経済不況が工業と農業に影を落とし、大きな不満を生み出していた。革命こそ起きなかったが政府への風当たりは強く、不穏な空気が漂っていた。88年には、大衆に人気のあったジョルジュ・ブーランジェ将軍を中心とするクーデター計画が発覚。未然に終わるが、まさに一触即発の状態だった。
万博開催には、こうした社会不安を一掃する目的もあった。1880年、当時の首相ジュール・フェリーには万博開催にあたり、3つの政治目標があった。”国民との和解、帝国の復興、帝国至上主義の推進”だ。鉄骨でできた巨大パビリオンの建設により、とくに金属産業を活性化し、国民の士気を高め、景気を回復しようとしたのだ。
会場は、セーヌ川から陸軍士官学校にいたる約95ヘクタールの練兵場だった。巨大な鉄のパビリオンが建ち並ぶなかで、ひときわ目立つのが高さ46メートル、幅115メートルもの機械館だった。中央にはドームがそびえ、宝石や香水、家具、織物、暖房設備などあふれんばかりの品々を展示。さらに中央ドームの両翼の建物では、ヨーロッパ初の大規模な米国美術品や絵画と、フランスが誇る第三共和政下の公教育制度をテーマとした展示をしていた。
だが、この万博でとりわけ見事で称賛の的となったのはエッフェル塔だった。高さ300メートルのこの塔は、1931年位エンパイア・ステート・ビルが完成するまで世界一の高さを誇っていた。設計者はブルゴーニュの技師ギュスターヴ・エッフェル(1832〜1923)。1789年のフランス革命から100周年を記念するイベントでもあったこの万博で、エッフェル塔フランス第三共和政と”革命との結びつき”を象徴する記念碑としてつくられた。また、敬虔なカトリック教徒が「1871年パリ・コミューンで落命した大司教の鎮魂のため」に、モンマルトルに建設中だったサクレ・クール寺院に対抗する意図もあった。パリの街をはさみ向かいあうエッフェル塔サクレ・クール寺院政教分離の象徴だった。
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万博には総額で4150万フランがかかったが、800万フランもの純益があった。万博終了後、建造物の大部分は撤去・解体されたが、エッフェル塔――総重量1万トン、250万本のリベットが使われ、1665段の階段があった――は残った。
一方、万博から4年後、設計者エッフェルの栄光に影がさす。フランスのパナマ運河建設中断をめぐる事件に巻きこまれて、契約不履行で訴えられたのだ。バッキンと懲役2年の判決を受けるが、控訴して無罪となる。1923年、エッフェルは91歳の生涯を閉じた。