じじぃの「人の死にざま_1509_ウィラード・ギブズ(物理学者)」

エントロピー増大の法則【石川県立大学 生化学】 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FubHidVzV88
Colorisation of a photograph of Josiah Willard Gibbs 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Us4harXnw1A
ウィラード・ギブズ

ウィラード・ギブズ ウィキペディアWikipedia)より
ジョサイア・ウィラード・ギブズ(Josiah Willard Gibbs, 1839年2月11日 - 1903年4月28日)はアメリコネチカット州ニューヘイブン出身の数学者・物理学者・物理化学者で、エール大学(イェール大学)教授。
熱力学で相律を発見するなど、大きな功績を残した。他にもギブズ自由エネルギーやギブズ-ヘルムホルツの式等にその名を残した。ベクトル解析の創始者の一人として数学にも寄与している。
ギブズの科学者としての経歴は、4つの時期に分けられる。1879年まで、ギブズは、熱力学理論を研究した。1880年から1884年までは、ベクトル解析分野の研究を行った。1882年から1889年までは、光学と光理論の研究をした。1889年以降は、統計力学の教科書作成に関わった。なお、彼の功績を称えて、小惑星(2937)ギブズが彼の名を取り命名されている。

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エントロピーをめぐる冒険 初心者のための統計熱力学』 鈴木炎/著 ブルーバックス 2014年発行
田舎の天才――南北戦争アメリ (一部抜粋しています)
19世紀後半のアメリカは、たしかに、学問的にはいまだ地の果てと言ってよかった。遡ること12年前の1863年南北戦争最大の激戦といわれるゲティスバーグの戦いの前月、ジョサイア・ウィラード・ギブズはエール大学から博士号を与えられたが、理学系の博士号は米国ではこれが2人目だった(工学では初)。ところが、このぽっと出の24歳の若者がやがて、学問的にははるかに先をいくヨーロッパを驚愕させることになる。
ギブズがその生涯にわたって発案したさまざまな概念――たとえば「相律」「ギブズエネリギー」「化学ポテンシャル」そして「分配関数」は、<エントロピー>という概念の適用範囲を飛躍的に拡大した。相転移や電池、気象から生化学まで、その理論は今日の教科書にはほとんどそのまま採用されていると言って過言ではない。その影響はあまりにも根本的であり、広くかつ大きいので、逆に「これがギブズの功績ですよ」とピンポイント的に指摘することができない。現代科学にとって。まるで水か空気のような存在になってしまっているのだ。それほどの先見性と完成度であり、ぶっちぎりで時代を超越していた。
しかし、同時に彼の論文は、これはもう異次元というか、同時代の優れた科学者たちが軒並みひるむほど、難解をきわめていることでも有名なのである。しかも彼は、欧州留学の経験はあるものの、クラウジウス、トムソン、マクスウェル、ボルツマンといった人々に直接師事したわけではない。まったく突発的、突然変異的に「無」から出現したようにも見えるのだ。
この男はそもそも人間なのか。だとすればどんな人間だったのか。その発想はいったい、どこから来たのか。興味は尽きない。ところが、彼の人生は――少なくとも外見上は――本書の登場人物中、最も地味であり、波乱もドラマもゼロなのである。科学者の伝記は書きにくいといわれるが、中でもダントツで書きにくいらしく、一般書でその名前が出ることもほとんどない。
こうなると逆に、この人はどうしてこうも地味なのか、というマニアックな好奇心さえ湧いてくる。長くなるけれども、ちょっとひねた視線でじっくり見ていくことにしよう。
コネチカット州ニューヘイブンの生まれ。ボルツマンより5歳上、マクスウェルより8歳下。年とってからの写真を見ると、いかにも礼儀正しく温厚そうな白髪の紳士である。哲学者風でもあるが近所を散歩していれば気軽に話しかけたくなるおじさん、という感じでもある。
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余談になるが、リンカーンは米国史上、特許を持っている唯一の大統領である。1849年、40歳のときに取得したその特許とは、蒸気船の「浮き」に関するもので、米国歴史博物館に展示されている。鉄道会社の弁護士をやっていたころから機械にはくわしく、「発見・発明・改良」というタイトルの講演が大人気で品評会や学校から引っ張りだこだったという。この点でも、彼は米国の時代精神を体現していた。有名な言葉が残っている。
「特許のしくみは、天才の炎に、利益という燃料を注ぐのだ」
ギブズにも、工学的才能を示す伝説的なエピソードがある。彼の視力低下は乱視によるものだが、当時の医者は乱視のことをよく知らなかった。ギブズは自己診断で乱視であることを突きとめ、眼鏡のレンズさえも光学知識を駆使して自ら設計したという。
さて、学位を取得したギブズは、エール大学講師の職を得て、得意だったラテン語と自然哲学を教えた。深淵なる理論物理学者というイメージからは想像しにくいけれども、こまごまとした日常些事をこなす事務能力も卓越していて、投資や家計のやりくりは得意だった。のちには自分が卒業した小学校の財政難を救うため、理事になって会計を担当している。
特許の件が一段落すると、ギブズはヨーロッパへの留学を決意する。
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難解とはいわれるが、あらためて読んでみるとギブズの思考様式そのものには難しいところはない。たしかに厳格で高度に数学的・抽象的なのだが、最も重要視されているのはむしろ理論の「単純さ」である。枝葉を落とすことで、理論はそのまま森羅万象に適用できるようになっている。個々の物性によらず、あらゆる物質と装置に応用できるために、潜在能力がすさまじいのだ。その抽象化が、よけいな解説やら具体例に乏しいのでとっつきにくく、読者はイメージがつかみにくいのである。特に化学者はこれに閉口した。
その思考の点でも、それを立証する実験技術の点でも、ギブズは時代のはるか先を行っていた。彼に追いつくのに、世界は半世紀を要したのである。論文から58年後、その著者の死から33年後の1936年、処分やの専門家が集って、その影響と応用を解説する注釈本を出した。ページ数は1300になった。
ギブズの名が欧州で多少とも知られるようになったのは、ひとえにマクスウェルのおかげだった。ギブズのもとには、英国の数学者、物理学者、化学者から論文の別刷り送付を依頼する手紙が相次いだ。エントロピー化学平衡の問題に思い悩んでいた化学者からの手紙には、ほとんど泣かんばかりの感謝の言葉が連ねられている。