じじぃの「人の死にざま_1501_ハワード・カーター(エジプト考古学者)」

Howard Carter and Tutankhamun's Tomb 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7ZWB5-aXMXQ
Is the curse of the pharaohs real? 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xi-UC6yumvo
世界ふしぎ発見 「古代エジプト続々新発見SP」 2014年10月11日 TBS
【司会】草野仁出水麻衣 【解答者】黒柳徹子野々村真ブラザートム山里亮太永瀬匡清水富美加 【レポーター】竹内海南江
最新技術によって明らかになった古代エジプトの新事実とは?
エジプト女性研究者、「ツタンカーメンの男性器は興奮した状態にされていました」
ツタンカーメンのペニスは勃起した状態でミイラ化されていたそうです。
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/bknm/20141011/p_1.html
ハワード・カーター ウィキペディアWikipedia)より
ハワード・カーター(Howard Carter、1874年5月9日 - 1939年3月2日)は、イギリス・ケンジントン生まれのエジプト考古学者。ツタンカーメン王の墓を発見した人物。
ツタンカーメンの呪い】
王墓発見後、カーナヴォン卿が墓の公開直後に急死した。また他にも発掘関係者数名が死亡した。
カーターは世間で噂された「王家の呪い」とは何ら関係なく健康な人生を送り、64歳の死去も当時の人間の平均寿命を考えれば、まずもって天寿を全うしたと言える。また直接発掘に関与した関係者も多くは長生きしている。

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『誰も書かなかった 世界史「その後」の謎』 雑学総研 中経の文庫 2014年発行
自身は「ツタンカーメンの呪い」から逃れられたハワード・カーター (一部抜粋しています)
1922年11月4日。エジプトの考古学者ハワード・カーターはルクソール近郊の「王家の谷」から、ついにツタンカーメンの墓を発見した。のちに「世紀の大発見」と称された。少年王・ツタンカーメンが3240年以上の眠りからようやく目覚めた瞬間であった。
1914年、パトロンであるカーナヴォン卿の支援によって王家の谷の発掘権を買い取ってもらい、当時は夢物語とされたツタンカーメンの墓の発見に邁進していたカーターの、8年越しの夢が叶ったのだ。
だが、「世紀の大発見」は、身の毛もよだつような悲劇の幕開けでもあった。発掘に関係する人びとが、相次いで死んでいったのである。
まず亡くなったのは、なんと発掘のパトロンであったカーナヴォン卿で、発掘しか半年しか経っていない1923年4月6日のこと。死因は、ひげを剃った際に蚊に刺された箇所を誤って傷つけてしまったことによるもので、菌血症から肺炎を併発したためであった(享年56)。
彼の死だけであったなら4それほど騒ぎになることもなかったのだが、以降、続々と屍が堆積する。カーナヴォン卿の弟、専任看護婦、カーターの秘書、カーターの助手、そして数人のエジプト学者と考古学者……。その数、なんと20人余におよんだ。
最初に亡くなったカーナヴォン卿の死因は明らかに病死だったが、彼を皮切りに何人もの関係者が死んだことで新聞が「ツタンカーメンの呪いだ!」と騒ぎ出し、コトが大きくなっていったのである。
だが、ツタンカーメンの呪いはこのように「新聞を通じて拡散していった」というのがミソで、現在の定説では、メディアによる作り話とされている。
実は、カーナヴォン卿はロンドン・タイムズと独占契約を結んでいたため、自由に取材することができないそのほかのメディアに恨みを買ってしまい、関係者の死が「呪い」という話の中に組み込まれていってしまったようだ。
現に、ツタンカーメンの発掘者であるカーターはその後も生き続けており、約20年におよぶ発掘作業ののち、1932年に母国イギリスへと戻り、1939年月に64歳で亡くなっている。しかし、イギリスへ帰国したあとのカーターは不遇で、ツタンカーメンの墓を発掘したとう世界的な名誉をえたにもかかわらず、「高等教育を受けていない」という理由から考古学者として高い評価を獲得することができなかった。