じじぃの「人の死にざま_1494_宇治・達郎(内視鏡)」

大腸内視鏡挿入法(直線タイプ) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zTSy5XgGeCY
宇治達郎医師

宇治達郎(うじ たつお) コトバンク
1919−1980 昭和時代後期の医師。
大正8年11月25日生まれ。昭和25年東大病院の副手のとき、オリンパス光学工業技師の杉浦睦夫、深海正治とともに、胃カメラを世界ではじめて完成させた。昭和55年11月27日死去。61歳。平成2年吉川英治文化賞。埼玉県出身。東京帝大卒。

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内視鏡 ウィキペディアWikipedia)より
内視鏡(Endoscope)は、主に人体内部を観察することを目的とした医療機器である。
1950年10月28日に東京大学医学部附属病院分院の副手だった宇治達郎とオリンパス光学工業(現・オリンパス)の杉浦睦夫、深海正治が、きわめて小さなカメラ本体及び光源(超小型電球)を軟性管の先端に取り付けた「ガストロカメラGT-I」を完成させた。
同年に3人を発明者として「腹腔内臓器撮影用写真機(ガストロカメラ)」の名で特許が出願され、1954年に発明協会から創立50周年記念全国表彰として朝日新聞発明賞を、1990年に吉川英治文化賞を受賞している。この開発の経緯は、1980年に吉村昭が読売新聞の朝刊に小説「光る壁画」として連載しており、1981年に新潮社より出版された。現在でも上部消化管内視鏡を総称して俗に「胃カメラ」と呼ぶことがある。
だが、宇治は父親が開業する医院を継ぐために大学を去り研究を中断、その後の研究は宇治から研究を引き継いだ東大病院分院の城所仂と今井光之助や、宇治の研究に着目した同じく東大病院本院の田坂定孝と崎田隆夫達により胃カメラの「改良・普及」が行われ、オリンパスからは深海と中坪寿雄がこれに協力した。田坂は1959年に日本胃カメラ学会(現在の日本消化器内視鏡学会)を発足し、今日の「内視鏡医療」の基礎を開拓した。
内視鏡の開発において最大の貢献者は宇治か田坂か?これは今でも議論になる。しかし当人達(いずれも故人)は個人的にお互いを尊敬しあっており、このような偉大な開発は「複数の医師の努力の結晶」と考えるべきであろう。

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世界が認めたモノ語り 2015年3月1日 テレビ東京
【司会】別所哲也
世界基準で戦い評価されている日本の製品がある。それらはなぜ認められたのか?開発の裏側などモノづくりの秘密に迫る。
▽世界シェア70%の内視鏡
日本で生まれた内視鏡・誕生の裏にあった若き医師と企業の絆。
http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/20758_201503011600.html
2015年3月1日 テレビ東京 『世界が認めたモノ語り』より
日本で生まれた内視鏡・誕生の裏にあった若き医師と企業の絆
オリンパス内視鏡は世界シェア70%を誇る。
東京八王子・オリンパス技術開発センター石川、オリンパス技術歴史館「瑞古洞」の映像が出てきた。
実は、胃鏡(町田製作所)はドイツ人医師・クスマウルが考え出した。しかし、患者に苦痛を与えるため普及しなかった。
東京大学医学部附属病院分院の医師だった宇治達郎とオリンパス光学工業(現・オリンパス)が、きわめて小さなカメラ本体及び光源(超小型電球)を軟性管の先端に取り付けた「ガストロカメラGT-I」を完成させた。
オリンパス内視鏡開発2部部長・木村英伸氏、「戦後間もない頃、東大・宇治先生から頼まれた」
東京杉並区・方南みどりクリニック・谷口将太郎院長、「いままで手術でないと治らなかったがん患者が内視鏡治療で完治できる時代になってきている」
その後、宇治達郎は内視鏡発明という世界的な業績を上げたにもかかわらず胃カメラが完成されるや、それまでの仕事すべてを後進に譲って郷里(大宮)へ帰り宇治病院を開業した。