じじぃの「人の生きざま_488_リチャード・アッテンボロー(映画監督)」

Gandhi - A Richard Attenborough Film 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=foFfXFwVC0E
CRY FREEDOM (Trailer) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=iq4VjE0_AVQ
リチャード・アッテンボロー監督死去 映画「ガンジー 2014年8月25日 朝日新聞デジタル
アカデミー賞作品賞や監督賞に輝いた歴史映画「ガンジー」(1982年)で知られる英国の映画監督、俳優のリチャード・アッテンボローさんが24日、死去した。90歳だった。英BBCが長男の話として伝えた。
ケンブリッジ生まれ。42年に俳優デビューし、米映画「大脱走」(63年)、「ジュラシック・パーク」(93年)などに出演した。ミュージカル映画コーラスライン」(85年)、南アフリカアパルトヘイト下の黒人解放活動家を描いた「遠い夜明け」(87年)も監督した。
http://www.asahi.com/articles/ASG8T2TFGG8TUHBI006.html
リチャード・アッテンボロー ウィキペディアWikipedia)より
アッテンボロー男爵、リチャード・サミュエル・アッテンボロー(Richard Samuel Attenborough, Baron Attenborough, CBE、1923年8月29日 - 2014年8月24日)は、イギリスの映画監督、映画プロデューサー、俳優。

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『世界史映画教室』 家長知史/著 岩波書店 1997年発行
遠い夜明け 1987年 アメリ (一部抜粋しています)
「遠い夜明け」の監督、リチャード・アッテンボローはこの映画の公開当時、次のように語っていました。
「この『遠い夜明け』を作るに際し、私が一番危惧したことは、南アフリカの出来事があまりにも早く動くのに対し、メジャーの映画は完成に2ヵ月以上かかることだ。つまり、現時点で始めた映画は皆、必然的にスクリーンにかかる前に時代遅れになるということなのである。私がドナルド・ウッズから受けた申し込みの力強さは、同時代的だが歴史的な物語ということである」(映画のパンフレットより)
アッテンボロー監督はみずから南アフリカ共和国(以下、南アフリカと表記)を訪れ、その実情をわが目で確かめると、その帰りにはこの映画を作る決意を固めていました。実際、映画が公開されて以後の現実の南アフリカの急激な変化は、監督の予測をはるかに上回るものであったでしょう。この映画が作られて5年ももたないうちに、南アフリカは歴史的な大転換をとげることになり、まさに、「遠い夜明け」は「同時代的だが、歴史的な物語」となったのです。真の「遠い夜明け」はまだ「遠い」としても、大きな希望の光が南アフリカにさし始めるのは、この映画からまもなくのことだったのです。そしてそれは、南アフリカの虐げられた人びとの苦難の闘いがもたらした輝きなのです。
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この映画のラストシーンのあとには次の字幕が打ち出され、当時の南アフリカの現実の姿を伝えています。「1962年に南アフリカ政府は裁判なしの拘禁を合法化した。政府が発表した拘留者の死因は次のとおりである。1963年9月5日、L・ヌガドル「自殺」、1963年9月19日、メルポープ 説明なし……」
犠牲者の紹介は、黒人の自覚を促す活動家スティーブ・ビコデンゼル・ワシントン)の「ハンスト」もふくめて、1987年3月26日まで続きます。この映画の製作が1987年ですから、「遠い夜明け」は完成のギリギリまで南アフリカの実態をふまえて作られた映画なのです。
しかし、ANC(アフリカ民族会議)などによる国内の反体制の高まりと、1985年以降の西側諸国の経済制裁(外国企業の撤退や貿易自粛など)の強化のなかで、南アフリカはその政策を根本的に改めざるをえなくなりました。89年に就任したデクラーク大統領は、90年にANCなど反アパルトヘイト諸団体の非合法措置を解除、28年間も獄中生活を強いられたANC議長ネルソン・マンデラを釈放し、話し合いを始めました。さらに翌91年、デクラークはアパルトヘイト廃止宣言し、人種差別、隔離の法律をすべて廃止しました。一連の革命的変革のなかで、94年にはネルソン・マンデラが大統領に選ばれ、95年にはANCと国民党らとの連立政権のもとで新憲法が制定されました。
今、南アフリカは多くの問題をかかえながらも「夜明け」を迎えつつあります。私たちはその真の「夜明け」を見守るためにも、南アフリカの「夜明け前」の姿がどのようなものであったのかをしっかりと見つめておくべきではないでしょうか。