じじぃの「人の死にざま_1464_EH・ハリマン(満州)」

パシナ形蒸気機関車 「あじあ号」(満鉄) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rXIegkXLs3Y
満鉄をめぐるハリマンと小村寿太郎の対決
ハリマンはグレートノーザンの社長であり、いわゆるアメリカの鉄道王であった。
しかも彼は単なる鉄道王ではなく、東アジアに興味を持つことにおいて、国務省とその思慮を同じくするアメリカ式の企業家であり、日露戦争の際、日本が公債をアメリカに求むるや、ニューヨークの金融界の覇王シッフと共に、大いに日本のために尽力し、自身もまた数100万ドルを引き受けたという抜け目のない男であった。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/hariman.htm
エドワード・ヘンリー・ハリマン ウィキペディアWikipedia)より
エドワード・ヘンリー・ハリマン(Edward Henry Harriman, 1848年2月20日 - 1909年9月9日)はアメリカ合衆国の実業家。W・アヴェレル・ハリマンの父。
ニューヨーク出身の銀行家であり、ユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者になった。ヤコブ・シフと共に日露戦争中には日本の戦時公債を1人で1千万円分も引き受け、ポーツマス条約締結直後に訪日して、1億円という破格の財政援助を持ちかけて、南満州鉄道の共同経営を申し込んだ。日本側も乗り気で1905年にポーツマス条約で獲得した奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定を結んだが小村寿太郎外相の反対により破棄された。

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『あの戦争と日本人』 半藤一利 文春文庫 2011年発行
鬼畜米英と日本人 (一部抜粋しています)
そして開戦直前の徳川無声さんの日記を紹介します。16年12月4日付です。
「日米会談、相変わらず危機、ABCD包囲陣益々強化、早く始まってくれ」
これがたぶん、国民一般の正直な気分でしたでしょうね。もう我慢も限界だと。アメリカとイギリスとオランダと支那が……ABCDというのは、アメリカ、ブリティッシュ、チャイナ、ダッチとABCD4つが一緒になって会談して、日本を降参させさせようというので経済的な圧迫を加えている。それに対して、日本が誠意をもって交渉しても、いい返事をしてくれない――、どんどん、そうやって重苦しい空気になって、もううんざりしていたんですな、みんな。頭にずしんと重いものが乗っかっているような、歯がずきずき痛んでいるような毎日で、何とかしてくれよ、もう早く始まってくれ、ガーンとやっちまえ、と。ですから、昭和16年12月8日、対米英戦争開戦のアナウンスを朝の臨時ニュースで聞いたときは、ほんとに国民は、ヤッターッ! と思ったと思いますよ。そしてその日の夕刻に、真珠湾奇襲に成功し、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊を完膚なきまでに叩きつけてやったというニュースを「軍艦マーチ」とともに耳にしたもんですから、その間隙ぶりたるや、すべての日本人がバンザイ、バンザイであったのは当然のことであったのです。
こうやってたどってくると、国と国との間柄、国交というものはつまらないことでお互いに疑心暗鬼になるし、誤解がさらに大きな誤解を生むし、ある時いっぺんに悪化してしまう。あれほど仲良くしていた国がわずか10年か、20年たたないうちに真性敵国になってしまったんです。不倶戴天の敵となったのです。
何度もくり返しますが、日露戦争を終わったときに、日本は今後どういう国にすべきか、ということをあまり議論できなかったんですよね。勝った勝ったで国じゅうが沸き返ってしまってね。結果的には大国主義を選んじゃったんですが、大国主義を選ぶということは、攻勢的な国防論になるわけ。ハリマンのあの提唱のときに、満州を一緒に経営しようというようなことになれば、アメリカは門戸開放とか、通商兵頭とか、余計なことを日本に言ってくることはなかったでしょう。日本もけっこううまく日米が貿易で国益を増進することができたかもしれないと思うんですがね。こんなこと言っても後のまつりなんですけど。