じじぃの「人の死にざま_1463_田中・智学(八紘一宇)」

消された言葉「八紘一宇 動画 YouTube
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平和の塔 「八紘一宇

田中智學 ウィキペディアWikipedia)より
田中 智學(たなか ちがく、田中 智学、1861年12月14日(文久元年11月13日) - 1939年11月17日)は、第二次世界大戦前の日本の宗教家。本名は巴之助。
【生涯】
多田玄龍・凛子の三男として江戸で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称した。
智學は「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に初めて着眼し、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であり、その後の結果が「八紘一宇」であると、「掩八紘而為宇」から造語した。
八紘一宇という言葉は、戦後、軍国主義のスローガンであったかのように言われているが、造語した智學は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に以下の記述をしている(智學は他に戦争を批判し死刑廃止も訴えている)。
 人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。

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『あの戦争と日本人』 半藤一利 文春文庫 2011年発行
八紘一宇と日本人 (一部抜粋しています)
さて、四文字七音のスローガンを追いかけてみると、昭和という時代を終戦までほぼ語れます。そのぐらい四文字七音は、日本人の感性に合ってるのかもしれません。
そのなかでも特に昭和の日本人に強い影響を与えた言葉があるんです。それが「八紘一宇(はっこういちう)」。
これは昭和15年から盛んに言われるようになるんです。昭和の日本人はこの言葉を大事にして、「紘子」とか「一宇」とか、子どもの名前にたくさんつけました。
そもそもは『日本書紀』の中に出てくる言葉なんです。神武天皇が檀原の地に都を開いたことを語った場面に出てくる。
「上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ふの心をひろめむ。然うして後に、六合(くにのうち)をかねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為さんこと、また可からずや」
上は、すなわち天皇は、天の神様から国を授けてもらって、その徳に答え善政を行い、下の者たちは正しいことを養う心を広める。
そうして、八紘は四方と四隅、つまり世界ということで、一宇は一つの家、世界を一つの国とするということで、そのいちばんの家長は、わが日本国だというわけです。国を興したときからそういう使命感をもってできあがった国だということを謳いあげている。今から見ますと、のちの昭和史における日本の大国主義という考え方の根っこは、なるほど、すでに神話の時代からあったといえるかもしれませんね。
……とはいえ、神話は神話。お話の中に埋もれていたこの思想が、どうして昭和の開戦前夜に息を吹き返したのでしょうか。
実は大正時代、この言葉を見事に使って、日本の国がいかにあるべきかを提示する人が出てきていました。田中智学さんという、在家宗教家です。「国柱会(こくちゅうかい)」という日蓮宗の宗教団体を作った人で、信者を集めて日蓮宗の普及に努めていました。
その国柱会が出していた「国柱新聞」のなかに田中智学さんが書いています。
「皇室は太古より同義の保護者として建てられたる家柄である」
万世一系だから尊いのではない。世界を統一すべき皇室だから尊いのだ」
「世界における日本建国が、はたして何の為なりしやを覚えれば、世界統一の天国は直ちに現じくるのである。人類の至幸至福ここに極まれるのである」
これが田中智学の皇室論の骨子なんです。まずは道義というものがあって、モラルのいちばんの中心としてあるのが皇室です。道義の拠点としての皇室、というわけです。「八紘ヲ掩ヒテ宇ト為ムコト」という『日本書紀』の言葉を使いまして、八紘というのは外側にいる「まつろわぬ者」(臣従しない連中)ではなく現実の「全世界」という意味に広げました。やがてそれを一つの「家」にするというのが皇室の役割で、だから皇室は尊いのだ、となるのです。