日本の軍歌ー同期の桜 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=sQc5mvP-F70
名曲・戦時軍歌 「同期の桜」 の作詞者帖佐裕とその周辺
太平洋戦争の開戦1年目に、71期581名が卒業、戦陣3年弱の間に331名の期友が祖国に殉じたのである。時に弱冠20歳少し過ぎであった。兵学校卒業以来のことが走馬灯のように頭の中を去来する。あの友も、この友も物言わぬ神となって、靖国の御社に鎮まり給うのだ。
その作詞作曲が前々から問題となっていた。作詞は詩人の西條八十ということにはなっていたが、作曲者が判らなかった。
期友帖佐裕君(平成7年死去)は戦後、常々次のように言っていた。「作曲は私でないし、歌詞も私が作り替えただけのことです。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/doukinosakura/chousa1.htm
同期の桜 ウィキペディア(Wikipedia)より
「同期の桜」は、日本の軍歌。太平洋戦争(大東亜戦争)時、好んで歌われた歌である。華々しく散る姿を、桜花に喩えた歌である。大村能章作曲。原詞は西條八十による。
【作詞者】
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部」に発表された西條の歌詞が元になっている。直接の作詞は、後に回天の第1期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が、海軍兵学校在学中に江田島の「金本クラブ」というクラブにあったレコードを基に替え歌にしたとも、同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長とも言われていた。
1984年5月5日、当時呉軍楽隊に勤務していた谷村政次郎(後に海上自衛隊東京軍楽隊長)が金本クラブを訪れ、割れてはいたが「戦友の唄」のレコードが見つかり(現在は江田島市ふるさと交流館1階に展示)、帖佐の証言が正しいことが証明された。
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『ぶらり日本史散策』 半藤一利/著 文春文庫 2010年発行
「同期の桜」のそもそもは (一部抜粋しています)
「戦陣二死シ職誠二殉シ非命二笥レタル者及其ノ遺族二想ヲ致セ八五内為二裂ク」
わたくしは毎年8月になると、終戦の詔書のなかのこの文書を、ぶつぶつと経文のように唱えて起きるのを毎朝のしきたりにしている。6日のヒロシマ、9日のナガサキ、さらに満州へのソ連侵攻、15日の天皇放送と、くそ暑かったあの年のことを嫌でも思い出す。そして、フト頭に浮かんでくる寂しいメロディ〜貴様と俺とは 同期の桜……にわれとわが耳をすましている。
と、神妙にはじめたが、閑話休題(それはさておき)で、あの悲しい調べの軍歌「同期の桜」について。たちまちに、話は変わる。
昭和44年(1969)に刊行、評判の高かった『定本日本の軍歌』(堀内敬三著、実業之日本社)には、この歌について「作詞作曲不明。終戦1か年ぐらい前からよく歌われていたものである」とある。ついでにこの歌と、「異国の丘」とは、「戦争終期の悲劇的な歌であることは共通で、これらの歌には活気がなく、明日への希望なんぞは一とかけらもない」と解説されている。
実は、いまは作詞者は元海軍大尉の帖佐裕(ちょうさゆたか)氏と判明している。戦後も大分たって氏みずからが明かした。海軍兵学校71期、人間魚雷「回天」の第1期訓練生で、特攻隊員としてのわずかな生き残りのひとりであった。そこで、昭和19年11月7日、玄作戦にもとづく菊水隊出撃のときに、帖佐中尉(当時)の指導で、この歌は初めて海軍の将校たちによって歌われたと、わたくしは睨んでいた。
それはまさに図に当たって、記録によれば、この日、回天を搭載した潜水艦伊三六、伊三七、伊四七が大津島基地より出撃した。征くものと送るもの、全員での「海ゆかば」大合唱のあと、潜水艦側から「撃沈の歌」が歌われ、つづいて基地に残る若い士官たちが、
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
見事散りましょう 国のため
と、声を揃えて歌ったというのである。つまり帖佐中尉がつくるところの、回天の基地の若い士官たちのみんなが知る新しい歌であった。やがてこの「部隊」の庭が、あるいは「兵学校」の庭となり、あるいは「航空隊」あるいは「戦車隊」の庭に変えられて、この歌が全国的にひろまっていった。われら中学生もさかんに歌った。
ところが、である。さらにうんと後になって、佐世保の親和銀行に勤めていた当の帖佐氏がこんなことを語っている。
「レコードを聞いて、いい歌だなと思ったので、適当に歌詞を直して歌ったものでした」
これを目にしたとき、ウムと、探偵としては駻馬に笞(かんばにむち)で勇み立たざるをえないことになる。じゃあ原歌があるということか。
それから悪戦苦闘の幾歳月、なんてことはどうでもよろしかろう。結論を申し上げる。確かに、あった! のであります。なんと、講談社発行の、『少女倶楽部』に。
いいですか、われら悪ガキ時代に愛読した『少年倶楽部』にあらず、『少女』のほうですぞ。時は昭和13年2月号。
君と僕とは二輪のさくら
積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきやならぬ
見事散りましよ、皇国(くに)のため
作詞者は西條八十、題して「二輪のさくら」(戦友の唄)なんであるな。これには恐れ入った。しかも、西條氏はこの詩に曲がついてこれがレコードになったことは知らなかったという。で、依然として作曲者は不明のままである。
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〜夜の夜中の真っ暗闇で/うんと踏ん張るあかがね色の/糞の太さと漲(みなぎ)る臭い/裏の畑の肥だめ便所/けつけつかいかいノミシラミ
(雑誌発表後、読者から「同期の桜」の作曲者は大村能章との教示を受けた)