外交評論家の岡崎久彦さん死去…保守派の論客 2014年10月27日 読売新聞
元駐タイ大使で、外交評論家の岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)さんが26日午後、死去した。84歳。
92年に退官した後も、外交評論家として多くのメディアに登場し、保守派で現実主義者の論客として活躍した。安倍首相の外交・安全保障政策のブレーンでもあった。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20141027-OYT1T50116.html
【産経抄】 他策なかりし 10月29日 2014.10.29 産経ニュース
出版されて30年もたつと、たいていの本は絶版になるはずだから、快挙といえる。
きのう訃報が届いた岡崎久彦さんが、昭和58年に出した『戦略的思考とは何か』(中公新書)は、今も書店に並んでいる。外務省から防衛庁に出向中だった岡崎さんが、1年間、米国に留学して書き上げたものだ。
http://www.sankei.com/column/news/141029/clm1410290004-n1.html
岡崎久彦 ウィキペディア(Wikipedia)より
岡崎 久彦(おかざき ひさひこ、1930年4月8日 - 2014年10月26日)は、日本の外交評論家・政治評論家。防衛法学会顧問。NPO法人「岡崎研究所」代表。元外交官。
【慰安婦】
慰安婦問題に関するアメリカ下院での決議案に異を唱えている。慰安婦は売春婦であったが、性奴隷・性的搾取などは事実でないと考え、歴史事実委員会名義でワシントン・ポストに掲載された反論の為の全面広告「THE FACTS」にも賛同者として名を連ねた。
一方で、2007年5月14日の産経新聞朝刊「正論」欄への寄稿では、「慰安婦制度が女性の尊厳を傷つける人権違反の行為であったことに謝罪するのが正しいというのが昨今の道徳的基準である」と述べ、慰安婦には謝罪すべきとの立場をとっている。
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プライムニュース 「日本外し?中韓急接近 領土と歴史認識の思惑 参院選と東アジア外交」 2013年7月9日 BSフジ
【キャスター】八木亜希子、反町理 【ゲスト】岡崎久彦(NPO法人岡崎研究所所長・理事長)、小此木政夫(九州大学特任教授)、朱建榮(東洋学園大学教授)
6月末、中国と韓国が首脳会談を行った。両国の関係が緊密化する中で、日本の外交戦略が問われている。
領土を巡り東南アジア各国や日本との対立が深まる中国にとって、韓国との接近にどんな意味があるのか。韓国・朴政権が、親中路線をとった理由とは。また、ここに来て両国とも、歴史認識を強調し始めた背景とは。
北朝鮮の核問題への影響、日米韓の連携に及ぼす影響など、日本のとるべき東アジア外交のあり方を考える。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d130709_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d130709_1
『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか。―隣の国で考えたこと』 岡崎久彦/著 WAC BUNKO 2006年発行
日本人の好きな国・嫌いな国 (一部抜粋しています)
当時のロシアの意図は極めて明らかであります。日露の外交交渉の席で、ロシア側は、朝鮮半島はロシア領土の予定地であり、とくに朝鮮半島南部は戦略的に重要であると述べたというのですから。問題はむしろ、日露戦争に勝ってロシアの意図を挫折させてから、日本としては、併合だけが唯一の選択であったかどうかということです。
自由と独立のご本尊であるアメリカさえ、フィリピンの独立運動を武力で制圧して植民地化した帝国主義時代のことです。その当時としてはむしろ非常識といえるような選択だったかも知れませんが、併合でなく、韓国の独立を保全するという選択も理論的にはあり得たわけです。現に、安重根は公判の席で次のように言って、伊藤公射殺の動機を語っています。
「日露戦争の時日本天皇陛下の宣戦詔勅(しょうちょく)には東洋の平和を維持し、韓国の独立を鞏固にならしむるということから、韓国人は大いに信頼して日本と共に東洋に立たんことを希望して居った。しかるに伊藤公の政策が当を得なかったために、(義兵が大いに起こり)……今日迄の間に虐殺された韓国民は十万以上と思います。……伊藤は奸雄(かんゆう)であります。……天皇陛下に対して、韓国の保護は日に月に進みつつあるというように欺いている其罪悪に対して、韓国人民は尠(すく)なからず伊藤を憎んで是を亡きものにしようという敵愾心(てきがいしん)を起こしたのであります」
安重根のことについては、後でまた述べようと思いますが、日清、日露の戦いで、韓国の独立保全を旗印に戦った日本が、それは清国とロシアが強い間のパワー・ポリティックスにおけるスローガンであって、いったん日本が他に優越する地位を占めるや、たちまち保護併合の道を歩んだことは、多くの人々が背信と解したものであります。善意の日本人の中でも同じ気持ちを持った人がいたらしく、西阪豊という日本人は、ソウルに通信社を設置して、日韓両国民の誤解を解き、東洋平和と韓国の独立のために貢献しようと、志を抱いてソウルに来ていたのですが、保護条約の調印を見て、こと志と異なるのに失望して割腹自殺をはかった由です。
実は、日本にとって具合の悪いことには、朝鮮半島の歴史では、存亡の危機に際して外部から援助に来てくれて、侵入者を追っ払ったうえ何も要求しなかったので韓国が深く感謝しているという国の例が、朝鮮戦争におけるアメリカの例だけでなく他にもあるのです。豊臣秀吉の朝鮮出兵に対し、明国は、朝鮮の要請にこたえて大兵を発して日本兵を駆逐しましたが、その後で寸土の割譲も求めず引き揚げました。朝鮮は深くその恩義を感じ、その後清国の勃興に際しても明国の側に立ち、清に攻められて降参してからも長く「尊王攘夷興明滅清」を理想として、官文書以外には清の年号を用いず、明を精神的な宗国として懐かしみ惜しんだそうです。もちろん、朝鮮には、もともと、大(だい)に事(つか)える思想、すなわち事大主義(じだいしゅぎ)があって、中国は別格な国として尊敬していた上に、人種的、言語的には親族である女真、契丹、満州、日本の諸族などはむしろ蛮族と考えて軽蔑して、中国を崇める風があり、この親明反清の態度は、いちがいに文禄慶長の役の恩だけからきたものともいえない面もあるのですが、朝鮮はその時の明の援助を「藩邦再造の天恩」と呼んだ由で、単に観念的・儒教的な事大思想だけからくるものと違って、民族の独立を救ってくれたことに対して心から感謝し、その恩に感じたのは本当だろうと思います。
こういう歴史の背景を考えますと、もし日露戦争後、日本が韓国の独立を保全したならば、韓国民はその恩義を感じて、日本人を尊敬し、日本人も尊敬されて気分がよいので韓国人を民族として好きになり、少なくとも現在のようなアンティパシー(相互嫌悪)は生まれていなかったのではないでしょうか。