♪マタイによる福音書20章♪ 新約聖書朗読 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yaJc-o-RmdQ
マタイによる福音書 20・1〜16 「葡萄園」
マタイによる福音書 ウィキペディア(Wikipedia)より
マタイによる福音書(ラテン語: Evangelium Secundum Mattheum)は新約聖書におさめられた4つの福音書の1つ。
伝統的に『マタイによる福音書』が新約聖書の巻頭に収められ、以下『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。呼び方としては『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』などがあり、ただ単に『マタイ』といわれることもある。
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マタイによる福音書10・5〜15 日本基督教団公式サイト
10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
http://uccj.org/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/14391.html
20100919マタイによる福音書20章1〜16節「この最後の者にも」 坂戸いずみ教会 礼拝説教集
マタイによる福音書20章1〜16節
「この最後の者にも」
私は、神さまのぶどう園に、夕方5時に、最後に雇われた者だから‥‥‥。
昨年の4月に、91歳で天に召されたMさんが、よくそのように言っておられた言葉を思い出します。Mさんは、お連れ合いを亡くされた後、60歳を過ぎてから教会においでになるようになり、63歳で洗礼をお受けになりました。それまでは神さまと関わりなく生きてきた者が、人生の晩年に至って、信仰を与えられ、救いの恵みに預かったご自分を、1日の最後に雇われたぶどう園の労働者に重ね合わせていたのです。
http://d.hatena.ne.jp/sakadoizumi/20100919
聖書の中の友情論 曽野綾子/著 読売新聞社 1990年発行
規則を越えて (一部抜粋しています)
私はユダヤ人というものに対して、どうも少し偏見を持っているようです。それは、現代のユダヤ人を見ると、たいていの人が自己主張が強くて、こちらの立場など一考もせず自分の言い分を押し通すというすばらしい才能の持ち主が多いからです。
しかし聖書の中に出て来るユダヤ人は、違う顔も持っていて、どちらがほんとうか困るくらいだと言いたいところですが、東南アジアの人たちも、ユダヤ人やアラブ人も、一方では、自分の利益を強烈に訴えますが、同時に、慈悲の心を濃厚に持っていて、身近で困っている人を見ると、「政府自民党がそういう人を助ける政策を出すべきだ」とか「社会保障が面倒みたらいいんじゃない?」などということを決して言わずに、困っている知人は、当然のこととして黙々と助けているのです。彼らの生きている社会に社会保障制度が確立していない、ということもありますけれど、こういう制度は完備すればするほど、人々から思いやりの心を奪います。
私の好きな葡萄園の労働者の話は、当時の労働者の生活を余すところなく伝えているので、いつ読んでも新鮮です。
「ある家の主人が葡萄園で働く者を雇うために、朝早く出かけた、彼は1日1デナリの約束で、労働者を葡萄園に送った。9時ごろまた市場に行ってみると、なにもせずに立っている人たちがいたので、『あなたたちも葡萄園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう』と言った。そこでその人たちは葡萄園に行った。主人はまた12時ごろと3時ごろに出て行って同じようにした。また5時ごろ出て行ってみると、ほかの人たちが立っていたので、『なぜ何もしないで、1日中ここに立っているのか』と言うと、彼らは、『誰も雇ってくれないからです』と答えた。そこで、主人は彼らに、『あなたたちも葡萄園に行きなさい』と言った。夕方になって、葡萄園の主人は管理人に『労働者たちを呼んで、最後の組から始めて、最初の組まで賃金を払いなさい』と言った。そこで、午後5時ごろの組の人たちが来て、それぞれ1デナリずつもらった。終わりに最初の組の人たちが来て、それより多くもらえるだろうと思っていたが、彼らも1デナリずつもらった。すると、主人に不平をもらして、『最後の組は1時間しか働かなかったのに、あなたは彼らを、1日中、労苦と暑さを辛抱した私たちと同じように扱われる』と言った。主人はそのうちの1人に答えて、『友よ、私はあなたに何も不正なことをしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではないか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ。私が自分のものを自分のしたいようにするのが、なぜいけないのか。それとも、私の気前のよさを、あなたはねたむのか』と言った (「マタイによる福音書」20・1〜16)。
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資本家と言えば搾取。しかしこの物語の地主は違いました。
彼はほんの少ししか働かなかった人にも、朝からがっちり仕事をした人にも、同じ賃金を払いました。
これは、当節では社会正義に反していることになります。「正当な報酬」というのは、誰にとっても理解しうる規則に則(のっと)って支払われるべきものなのです。
しかしその日、葡萄園で働いた人は、作業量の多寡にもかかわらず同じ賃金をもらいました。それは、家族がいれば、食べるのにかかる費用も同じだからです。今の時代なら、或る家族では霜降りのビフテキと松茸の土瓶蒸しを食べ、別の家ではサンマともやしのいためものを食べている、ということもあります。うっかりするとそこで数千円の食費の差がでてしまう……。
しかしイエズスの時代に庶民の生活はほとんど違わなかったようです。パン、チーズ、葡萄やいちじくなどの果物、蜂蜜、時に魚。家族の数だけ、この質素な食事の費用はかかります。だから、この葡萄園の所有者は、その日、日雇いで、働いた人全員に、家族を養えるだけの賃金を払ってやったのです。
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昔は日本にも、そういう哀れみ深い人はたくさんいました。私の祖母の時代、身近に貧しい人がいると、こっそりお金を包んで持たせたり、古着にせよ、きちんと整えた衣類や寝具などを、心配して届けたりしたものです。
この頃、人間らしい感動を欠いた子供たちが増えたといいます。先頃、アメリカで向こうの家族に滞在させてもらった日本人の子供が、お別れに当ってその家の人たちが空港まで見送りに来て、別れを惜しんでくれて泣いているのを見て、「どうして泣いたりしてるのかしらね」とけろり、と言ったという話を読みました。そういう子は、成績もよく、知識的能力は人一倍だというのですが、人の心を思いやるという点で、全く一人前になっていないのです。
理屈や常識を越えて、相手の立場を思いやれる人になる。そして時には規則を越えて、その人が生きられるように手助けをする勇気を持つことを、神もお望みなのです。