じじぃの「人の死にざま_1406_山田・寅次郎」

オスマン帝国軍艦 エルトグロール号

山田寅次郎

日本・トルコ友好秘話【jpcanada掲示板】
1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くした。
この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。
時代は下って、イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクサダム・フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。
イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。空港にいた日本人は、パニックに陥った。
そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
http://bbs.jpcanada.com/log/6/5835.html
山田宗有 ウィキペディアWikipedia)より
山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年(1866年)8月23日 - 昭和32年(1957年)2月13日)は、実業家、茶人。
茶道宗偏流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。また寅次郎の名は、明治25年(1892年)に初めてオスマン帝国(現・トルコ)の首都・イスタンブルに渡って以来、大正3年(1914年)までの間のほとんどの期間をイスタンブルに滞在して貿易と民間交流に努め、日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物としてもきわめて有名である。
【トルコとの関わり】
明治23年(1890年)、訪日から帰国途上のオスマン帝国軍艦エルトグロール号の遭難事件が日本中に大きな衝撃を呼ぶと、寅次郎は民間から義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立った。彼は親交のあった日本新聞社の陸羯南に働きかけて募金運動を起こた。日本中を演説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされる)の寄付を集めた。

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『これならわかるキリスト教イスラム教の歴史Q&A』 浜林正夫/著 大月書店 2005年発行
日本人ではじめてイスラム教徒になったのはだれですか。
日本人でイスラム世界を訪問した人は何人かいましたが、イスラム教徒となったのは有賀文八郎が最初です。彼は1868(慶応4)年、会津の生まれ、会津白虎隊の一族の出身といわれています。有賀は小学校の教員をしていましたが、海外で活躍したいと思い、横浜に出て英語を勉強し、渋沢栄一の後援を受けて「恒信(こうしん)」という南海貿易の会社をおこし、わずか23歳でこの社のパラオ支店長となりました。
そこから営業のためインドのブンバイ(ボンベイ)へ行ったときに、そこにそびえ立つモスクの立派さに感動し、1896(明治29)年、インド人イスラム教徒の影響を受けてイスラム教徒になりました。有賀はイスラム名をアフマッドといい、1946(昭和21)年、80歳で亡くなりましたが、私財を投じて日本でのイスラム教徒の普及につくしたといわれています。
もう1人、山田寅次郎という人がいます。彼は1866(慶応2)年、江戸で生まれました。子どものときから外国語が好きで、横浜の英語学校にすすみ、東京へもどってからは文学青年として幸田露伴尾崎紅葉などともつきあいがあったといいます。1890(明治23)にトルコの軍艦エルトグロール号が紀州半島の沖合で座礁し、死者121名、負傷者63名、行方不明多数という惨事となりましたが、山田は義援金を集め、これをトルコへ送ろうとしました。ところが、外務大臣から自分でトルコへ持参してはどうかとすすめられ、海軍がチャーターした英国船に便乗する手配をしてくれました。大喜びした山田は翌々年1月横浜を出発、カイロを経て2ヵ月近くかかってイスタンブールに到着し、オスマン帝国のアブドル・ハミッド2世に謁見を許され、厚いもてなしを受けて約3年間トルコに滞在しました。帰国後、山田は各地で講演し、トルコとの友好関係を樹立するよう訴えて回り、たびたびトルコを訪れ、日本との貿易の発展に尽力しました。そのなかで山田は皇帝から家庭教師をつけてもらい、コーランの勉強もし、1902(明治35)年に、皇帝自らのすすめでイスラム教徒となりました。アブドル・ハリルというイスラム名も皇帝から授けられたといわれています。山田は関西の実業界で活躍していましたが、1957(昭和32)年、92歳の生涯を閉じました。