じじぃの「人の死にざま_1405_明石・順三」

Into Darkness - Jehovah's witnesses history - Scans provided 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=u5JnngqQYvc
明石順三

明石順三氏について
1889年(明治22)生〜1965年(昭和40)死去。灯台社の主幹。51歳だった1939年(昭和14)6月21日の第二次一斉検挙で逮捕され、以後、終戦まで釈放されなかった。
灯台社の戦時下抵抗で最も多く語られている人物の一人。
順三は入獄中に悪質な喘息を患っていたが、これが災いし、呼吸困難と心臓の衰弱で1965年(昭和40)、11月14日午後1時、死去した。
http://www.geocities.jp/todai_sha/relative_persons/Akashi_junzo.html
灯台 ウィキペディアWikipedia)より
灯台社は、アメリカにあるものみの塔聖書冊子協会日本支部としてかつて存在していた団体。
1926年9月6日、アメリカ在住の日本人、明石順三がものみの塔聖書冊子協会の任命を受けて来日、同社の日本支部として「灯台社」を結成する。翌1927年の初頭に彼は神戸に支部を開設するが、その年の後半には東京の銀座へと移転、さらに荻窪へと移転し、そこに印刷工場を設置した。彼らは聖書を無謬の記録として唯一神を信仰して偶像崇拝を禁じ、また戦争を聖書が唱える殺人罪にあたるとして兵役拒否を唱えていた。
1933年5月に治安維持法違反の嫌疑により明石を含む数名が逮捕されるが、証拠不十分として釈放される。ところが1939年になって明石の息子と宣教者1名が信仰上の理由で徴兵を拒否したことから、日本(6月21日)、台湾(6月22日)、朝鮮(6月29日)の130人の灯台社関係者が一斉検挙され、翌年には強制閉鎖を命じられ、1942年には資産の没収・強制売却処分を受けた。裁判で明石らは自分たちの活動は日本の国家や天皇と矛盾するものではなく、天皇の神的権威を否定しているに過ぎないと述べる一方、現在の日本はこのままでは滅びると唱え、自分はそれを理解していない1億(当時)の国民と戦っていると述べた。その結果、明石らは有罪判決を受け、日本が終戦を迎えるまでその活動は停止状態にあった。
エホバの証人 ウィキペディアWikipedia)より
エホバの証人(Jehovah's Witnesses)とは、1884年にチャールズ・テイズ・ラッセルによりアメリカで始まったキリスト教系の新宗教、宗教法人ものみの塔聖書冊子協会 に属する信者の総称。
伝統的キリスト教が教える三位一体説の否認、エホバ神を唯一神として崇拝する。イエスは神の意向を行う代理人と認めるが、神性を認めず礼拝の対象とはしていない。輸血拒否や兵役義務の拒否などのタブーを持つのが特徴で、聖書無謬説、ある種の世界終末思想、死者の復活、福千年およびキリストの再臨、14万4,000人が天に行き、イエス・キリストとともにハルマゲドン後の世界統治の手助けを行う。 神が任命した王イエス・キリストが統治する「神の王国」と呼ばれる世界的な政府の実現を待ち望んでいる。
なお、本記事においては特に断らないかぎり、引用元を示す聖書の書名略記はエホバの証人の発行する出版物で用いられている用語に、章・節は新世界訳聖書に準拠する。2014年現在エホバの証人の公式ウェブサイトは、世界の680以上の言語で閲覧できる。

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『これならわかるキリスト教イスラム教の歴史Q&A』 浜林正夫/著 大月書店 2005年発行
戦時中、日本のキリスト教徒のなかに兵役を拒否した人がいたそうですが、どういう人ですか。
キリスト教は、公認されてからエホバという唯一神信仰と天皇崇拝との矛盾をかかえることになりますが、天皇崇拝を拒否して第一高校を解雇された内村鑑三はむしろ例外で、大勢は天皇制との妥協をはかろうとし、日清、日露の戦争や韓国の植民地化にも協力的でした。昭和に入るころから宗教団体への統制が強まり、1939(昭和14)年に宗教団体法が制定され、1940年には政府の要請を受けてプロテスタント諸派がほとんどすべて合同し、日本基督教団が成立しました。戦後になってこういう戦争協力を反省する動きもでましたが、戦時中にもキリスト教の信仰を堅く守り、天皇崇拝を拒否したり、戦争に反対する小教会もありました。そのなかで1939年に灯台社が一斉検挙を受け、つづいて42年にホーリネス(聖潔)教会、聖教会、きよめ教会が一斉検挙を受けて解散に追い込まれてます。灯台社というのは、先にのべたアメリカの「エホバの証人」の日本支部で、1926(昭和元)年にアメリカ帰りの明石順三(あかしじゅんぞう)という人が結成したものです。
日露戦争のとき矢部喜好というセブンスディ・アドベンティスト(アメリカではじまったキリストの再臨と土曜日安息日を主張する派)が徴兵を忌避したのが、日本のキリスト教徒としては最初といわれていますが、灯台社の徴兵忌避が有名です。明石自身は戦争批判をつづけ、1940年に懲役10年の刑を受け服役していましたが、信者の一人村本一生(いっせい)は軍隊に入ったものの「皇居遥拝(ようはい)」のときに遥拝をせず、人を殺すことはできませんといって兵器を返上したりして、軍法会議にかけられました。除隊後は熊本刑務所にいれられ、暴行虐待を受けましたが、転向しませんでした。彼は陸軍刑務所の獄中で「シナ事変の真相」という長文の手記を書きましたが、その中で戦争を批判し、満州事変以来世界の憎まれ者となった日本を、英米ソ連など世界諸国はどこまでもいじめぬき、日本は中国大陸からほうり出されるのは無論のこと、満州からも追いだされ、明治以後日本が獲得した新植民地、新領土の返還要求も当然くるかもしれない、といっています。太平洋戦争がまだはじまらない1939(昭和14)年に日本の敗戦とその結果を正確に予測しているのには驚かされます。
なお、明石は戦後アメリカの「エホバの証人」が第二次大戦を支持したことを知り、本部の抗議文を送り、そのためこの教派から除名されました。