じじぃの「イスカリオテのユダから見たイエス・キリストー22人の証言」

知ってるつもり?!イエス・キリスト』1/8 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JEoIDqNnYEo
知ってるつもり?!イエス・キリスト』2/8 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uIgNiCSWdLk
井上洋治著 「イエス 22人の証言」

十字架に磔になったイエス

BBC地球伝説 「ミラクルは起こったのか?キリストの奇跡にいどむ(1)奇跡に隠されたメッセージ」 2010/1/13 BS朝日
アメリカで人気を博している敬虔なキリスト教徒であるマジシャンのブロック・ギルが、聖地を旅して、キリストの奇跡を検証する3回シリーズ。その第1回では、キリストが起こした有名な3つの奇跡を検証する。
ブロック・ギルは、キリスト教徒でありマジシャンでもあるという立場をフルに活かして、謎に満ちたキリストの奇跡を検証していく。キリストの奇跡はマジックで再現できるのか、それとも本当の奇跡だったのか…? 番組では、CGを駆使した再現ドラマでキリストの奇跡を映像化し、さらにブロックがそれをマジックで再現できるかを検討。ブロックの依頼を受けて、イリュージョンの第一人者が水の上を歩く奇跡を再現するシーンは大きな見どころだ。
結局、キリストがどのようにして奇跡を起こしたのかは謎のままだが、そこに「自分こそが旧約聖書の偉大な人物の再来である」というメッセージが込められていたという結論は、なるほどと思わせるものである。
キリストが起こしたという3つの奇跡とは、未亡人の息子を生き返らせた奇跡、わずかなパンと魚を5000人分に増やした奇跡、そして水の上を歩いた奇跡である。
キリストはなぜ、どのようにしてこれらの奇跡を起こしたのか、ブロック・ギルは聖書をつぶさに調べ、奇跡の起こった現場を訪ねて検証する。
ブロックは、これらの奇跡をマジックで再現できるか検討するが、最初の2つの奇跡については、まったく再現不可能。水の上を歩いた奇跡は、現代のテクノロジーを用いれば可能だが、当時は不可能だったという結論に至る。
キリストがどのようにしてこれらの奇跡を起こしたのかは、結局謎のままだが、なぜこのような奇跡を起こしたのかは、ヒントが見えてくる。旧約聖書を調べると、キリストの奇跡には先例があることがわかる。偉大な預言者や救世主の再来を待ち望む当時の人々の思いをくみ取って、キリストは旧約聖書の偉大な登場人物をなぞろうとしていたようだ…。
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_09_01.html
1700年前のパピルス文書『ユダの福音書』を修復・公開 ユダに関する新説を提示 2006/04/07 ナショナルジオグラフィック
ユダの福音書』は、イエス・キリストとユダの関係に新たな光を当てる重要な史料です。新約聖書ではユダは裏切り者として非難されていますが、新たに発見されたこの福音書には、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってしたことだと書かれています。
パピルス文書は冊子状の写本(コデックス)で全体は66ページあり、26ページが『ユダの福音書』です。紀元3〜4世紀にコプト語(当時のエジプトの言語)で書かれたこの写本は、ギリシャ語の原典に基づくとみられています。パピルスの断片をつなぎ合わせて文章を読み取り、英語に翻訳する作業は、コプト語の世界的権威であるスイスのロドルフ・カッセル博士の率いる専門家チームが行いました。
放射性炭素年代測定法、インクの成分分析、マルチスペクトル画像の解析、文章構造の分析、古文書学的な検証という5つの手法で鑑定を行った結果、この写本は後世の偽書ではなく、古代に記された本物の聖書外典であることが確認されました。
支援プログラムを担当するナショナル ジオグラフィック協会のテリー・ガルシア副理事長は「この文書はキリスト教黎明期の歴史と宗教思想を伝える重要な手がかりであり、歴史家や神学者をはじめとする専門家が今後も引き続き研究していくべき、第一級の史料です」と話しています。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml
『イエス―22人の証言』 井上洋治/著 日本基督教団出版局 2000年発行
イスカリオテのユダから見たイエス (一部抜粋しています)
あらためて福音書に眼をとおしてみると<さいごの夜>を除けば、イスカリオテのユダに関する記述は、ほとんど断片的といえる2箇所しかない。記録ではなく記憶と創造によって福音書が成立したとすれば、それはやむをえない。イエス自身の出目や来歴でさえ分からないのだから、ましてや使徒たちのそれが不明なのは当然であろう。ユダがイエスをどう視ていたか――それを述べるまえに、とりあえず<裏切り者>という烙印を消し、ひとたびかれの裸のたましいを甦らせてみよう。
「マタイによる福音書」に初めてユダの名が出てくるのは10章4節である。いわゆる12使徒が選ばれる箇所で、記された名前の順序は、かなり意図的である。早くから弟子となった者、そのなかでも中心的な者から順に記されている。そしてユダはさいごに「それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」と。つまり福音書の書き手は、過去における<結果>をもとに、かれを使徒の末席においたのだ。
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おそらくユダはイエスの<復活>を信じていなかった。少なくと肉体がそのまま傷を負っただけで復活するとは思えなかった。もしそうだとしたら、それは単にみずからの<不死身>を曝すことにしかならない。なんのためにそんなことをするのか――かれには理解できなかった。では、そのあとはどうするのか、どうなるのか、と。そしてイエスの再三にわたる予告が、もし実行されるとしたら……そう思ったときユダの内部に、かっての<暗さ>が、いや<暗い情念>がいつしか甦っていた。イエスが本当に殺されるのならば、わたしが導火線になろう。そして、わたしも死ぬのだ、と。逃げようと思えば、いまからでも間に合う。だが、あの方はもう決めてしまっているのだ。ならばわたしが死へと引き渡す役割を演じてみせようではないか。ユダはそう決心すると出かけていった。「そのとき、12人の1人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨30枚を支払うことにした」(マタイ26・14〜15)。
マルコ書では、祭司長たちの方から「金を与える約束をした」となっている。マタイ書がマルコ書を下敷きにして成立したとすれば、あたかもユダが要求したかのように歪曲されている。マタイ書の書き手は、どうしてもユダの裏切りを許せなかったため、それを金(=銀貨)のせいにしたのだ。すでに完了してしまったことへの「もし」が無意味であるとしても、あえて疑問をさしはさんでみたい。もしユダの引き渡しがなければイエスは処刑されなかったのか、と。するとイエスの予告はふいになっていたのではないか、と。おそらく福音書を読んで、こうした疑問を抱いた者は、多いだろう。これは危うい設問である。そしてわたしにも、むろん答えられない。……やっと最後の晩餐にたどりついた。イエスはユダについて、こう告げた。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26・24)。
この発言が<事実>だとすれば、残された11弟子によって伝えられたのだろう。しかし、そうであるならば、なぜイエスはじぶんの弟子と認め、さらには12使徒にまで引きあげたのか。この箇所が福音書の書き手による<付言>だとすれば、納得がいく。書き手はどうしてもユダを、このような人間として烙印を押したかった。もしかすると、かれの内部にもユダの<暗い情念>に似たものがひそんでいたのかもしれない。そこには<近親憎悪>とも呼ぶべきなにかが隠されていた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
少し古い本だが、井上洋治著 『イエス―22人の証言』という本を図書館から借りてきた。
この本を読んでいて、2010年 BS朝日 BBC地球伝説 「ミラクルは起こったのか?キリストの奇跡にいどむ(1)〜(3)」をテレビで観たのを思い出した。
テレビで観たようなイエスが行ったといわれる奇跡の話も本に載っている。
イスカリオテのユダから見たイエス」はユダがイエスを金で売るという、裏切りの話だ。
しかし、『原典 ユダの福音書』という本にはユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身が仕向けたからだと書かれている。
エスの活動期間はわずか半年から1年ほどらしい。そして、実際の活動内容はよく分かっていない。
ただ、思ったことはイエスは自身のことを「神の子」として振るまっていたことだ。
エスだけが神の子という教えを拒絶したユダヤ人たちはイエスを迫害した。結果的に、イエスローマ帝国へ反逆者として渡され十字架に磔になって処刑された。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」
これは聖書に後から、付け足された言葉だ。