じじぃの「神話伝説_16_雄略天皇」


NHK高校講座 日本史 「第3回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生 大和王権古墳文化 
【ゲスト】高橋英樹AKB48 【講師】渡辺晃宏(奈良文化財研究所 史料研究室長)
ワカタケル大王とは、当時の大和王権の王と考えられています。
鈴木さんは、「ワカタケル大王という言葉が大事で、雄略天皇、いわゆる大和政権の勢力が東日本の地域にまで及んでいたということを表している」と話します。
この鉄剣により、5世紀の後半の日本の様子を知ることができるといいます。
雄略天皇は関東から九州まで治める一方、大陸、すなわち中国とのつながりも持ち全国を支配していました。
雄略天皇=ワカタケルの時代は、大和王権の支配の中でも重要な時代だと考えられていると、渡辺先生は話します。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume003.html
雄略天皇 ウィキペディアWikipedia)より
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。
また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。
日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。

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『日本神話の謎を楽しむ本』 鎌田東二/監修 PHP研究所 2012年発行
雄略天皇 善人か悪人か……? 流血の果てに即位した天皇 (一部抜粋しています)
第21代の雄略天皇は、その名をオオハツワセワカタケといい、苛烈な性格で知られる天皇だ。『万葉集』では第一首目がこの雄略天皇の作と伝わる歌であり、さらに『古事記』でも即位後に天皇の歌物語が展開されるなど、和歌とも縁の深い人物である。
だが、『日本書紀』には人を殺戮する「大悪天皇(「はなはだあしくましますめらみこと)」という人々の評価が記されており、残酷な一面をうかがわせる。
そもそもその片鱗は即位前から現れている。先帝安康天皇(アナホ)暗殺後、犯行に及んだ眉輪王(まよわのおう)とそれをかくまった葛城氏を滅ぼしただけでなく、同母兄のクロヒコ、シロヒコを殺害。さらにその後、従兄のイチノベノオシハを仮に連れ出して殺害した。これらは皆、皇位継承順位において雄略天皇より上位にある人々で、こうした人々を皆殺しにして即位を果したのである。
また、天皇が狩りに出かけたとき、獲物の料理に関しての群臣の言動に腹を立てて御者のオオツノウマカイを斬り捨てた。召し出そうとした女性がほかの男とすでにいい仲になっていたことを知ると。まとめて殺害した。
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また、「聖帝」と讃えられた仁徳天皇と対比され、仁徳天皇に始まる系譜における最盛期の天皇なので、有徳天皇に位置づけられたといわれる。それと同時に「大悪天皇」と恐れられたのは、この時代に王朝の繁栄と同時に終焉の兆しが現れたためで、雄略天皇は王朝の繁栄と終焉の両方の象徴とされたからだともいう。
王朝衰退の兆しは、雄略天皇崩御の際のエピソードからもうかがえる。天皇は自分亡きあとの王位継承者と国の行く末を案じながら、大勢の臣下の手を一人ひとり取って別れを告げ、むせび泣いたという。
その姿にはかつての「大悪天皇」の面影は微塵もなく、王朝衰退の兆しが投影さてていたのであった。