じじぃの「神話伝説_13_サムソンとデリラ(旧約聖書)」

Samson and Delilah 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2Ubzc6Y4cY0
サン=サーンスサムソンとデリラ》 「あなたの声に私の心は開く」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=n0IkncrfzOU
パレスチナ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=NP3-MLLXQME
レンブラント作 「目をえぐられるサムソン」

エリザベス・ハーレイのデリラ」 - ユーザーレビュー - サムソンとデリラ Yahoo!映画
映画そのものは、公平に言って、あまりおもしろいものではない。
歴史物としては、スペクタクルとはいかず、派手な場面はほとんどない。不毛の砂漠の地パレスチナを舞台にした、地味な作品だ。
ある程度、聖書や当時の民族と人物について知らないと、わかりにくい。聖書に興味のない人にとっては、退屈だと思う。
http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%A9/319663/review/%E3%80%8C%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%81%AE%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%80%8D/1/?c=1&sort=lrf
士師記 ウィキペディアWikipedia)より
士師記』(ししき)は聖書の書物である。
ヨシュアの死後、サムエルの登場に至るまでのイスラエル人の歴史が含まれており、他民族の侵略を受けたイスラエルの民を、「士師」と呼ばれる歴代の英雄達が救済する内容である。この書物は、キリスト教においては旧約聖書に、また、ユダヤ教においては預言者に分類される。この書物の原作者は、伝統的にサムエルであると信じられている。
ペリシテ人 ウィキペディアWikipedia)より
ペリシテ人、あるいはフィリスティア人(Philistines)とは、古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群である。アシュドド、アシュケロン、エクロン、ガザ、ガトの5つの自治都市に定着して五市連合を形成していた。古代イスラエルの主要な敵として知られ、聖書の『士師記』や『サムエル記』で頻繁に登場する。特に、士師サムソンの物語や、戦士ゴリアテと戦ったダビデの物語などが有名である。
現在のヨーロッパ諸語では、ペリシテ人とは「芸術や文学などに関心のない無趣味な人」の比喩として使用される。
また、パレスチナ(Palestina)は「ペリシテ人の土地」という意味だが、実際には、現在のパレスチナ人はアラブ民族であり、ペリシテ人とはまったく関係がない。
サムソンとデリラ (1949年の映画) ウィキペディアWikipedia)より
サムソンとデリラ』(Samson and Delilah)は、セシル・B・デミル監督、製作による1949年のアメリカ映画。『士師記』のサムソンとデリラの物語を原作としている。
サムソン ウィキペディアWikipedia)より
サムソン(ラテン語: Samson)は、旧約聖書士師記13章〜16章に登場する人物。古代イスラエルの士師の1人で、怪力の持ち主として有名。名前には「太陽の(人)」、「(神に)仕えるもの」という意味があると考えられる。
【サムソンの登場する芸術作品】
・『目をえぐられるサムソン』(De Verblinding van Samson) レンブラントの油彩画、1636年。
デリラ ウィキペディアWikipedia)より
デリラ(Delilah)は、『旧約聖書』に登場するペリシテ人の女性で、サムソンの妻である。サムソンを裏切ってペリシテ人に売り渡したといわれる。

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旧約聖書を知っていますか』 阿刀田高/著 新潮文庫 1991年発行
サムソンの謎 (一部抜粋しています)
「なにも、そんなこと言ってないだろ」
「疑われたまま生きてんのなんか嫌。ねえ、早く殺してよ」
デリラは拗(す)ねて、拗ねて、拗ねまくる。サムソンがデリラの企みに気づかなかったはずがない。気づいていながら、
「秘密は髪の毛にあるんだ。これを剃られてしまったら、俺の力はなくなってしまう」
ついつい真実を口走ってしまったのは、なぜだったろう。
わからない人は、まだ女性について苦労の足りない人である。この方面に月謝の出し足りない人である。”いかん、いかん”と思いながらも、ついついわるい女の術中に陥るのは、相当に賢い男でもやっている。男の習性みたいなもの。あにサムソンのみ例外ならんや。
デリラはサムソンを眠らせ、髪を剃り落してしまう。
「今度こそ許さんぞ」
ペリシテ人が躍り込んで来て、デリラは、
「あら、また……大変」
同じ台詞を呟いたが、サムソンは本当に力をなくしていた。
ペリシテ人に捕えられ、眼をえぐられ、足枷(あしかせ)をはめられる。そして、ろばのように牢屋で日がな1日粉ひきをさせられてしまった。
「さんざん苦しめてから殺してやれ」
やがてペリシテ人が崇拝するダゴンの神の祭りが来て、サムソンはいけにえとして捧げられることになる。
「サムソン、踊れ。あははは」
ダゴンの神の神殿に引き出され、さんざんなぶられ、あとは惨殺を待つばかり。デリラはどんな顔でこの光景を見ていたのだろうか。女心を知るためにも私はちょっとタイムマシンに乗って行ってみたい。
サムソンは神殿の柱をさぐった。
牢屋に繋がれているうちに、サムソンの髪は少しずつ伸びていた。神が伸びれば力が戻って来る。
「神よ。もう一度私に力をお与えください。私の命はペリシテ人とともに消えてもかまいません」
祈ったのはもちろんイスラエルの、あの唯一神に対してである。
サムソンは力の限り柱を押した。歯を食い縛り、全身の力で神殿を支える2本の柱を押した。
ズズッ。柱が滑り、神殿がグラッ、グラグラグラグラ、ガガーッ、すさまじい音とともに崩れて、大勢のペリシテ人の上に落ちた。このときに死んだ者の数は、サムソンが生きているうちに殺した数より多かったとか。
サムソンの遺体は家族に引き取られ、父の墓に葬られた。旧約聖書はその葬られた土地を記したあとで、少々唐突に、
”彼は20年間、士師としてイスラエルを裁いた”
と結んでいる。
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「まったくもう……ペリシテ人さえいなきゃいいんだが」
信仰を守ることさえおぼつかなかった。ペリシテ人におもねる手合いばかりが増えていた。
そこに現れたのがサムソンであり、実際にはそれほどの怪物ではなく、虚構の部分も多々あっただろうけれど、とにかく彼は憎いペリシテ人を退治してくれた。そういう英雄のイメージを備えたものとして作りあげられたのであろう。
唯一神の正しい基準に照らしあわせてみれば少々はずれているところがあっても、
「それも神様になにかお考えがあってのことでしょう」
でよろしい。
旧約聖書に帰された数多(あまた)のエピソードの中で、この物語がよく知られているのは、
「なんたってデリラが出て来るからねえ」
と私は思ってしまう。
案外このあたりが大衆の正直な感情かもしれない。
悪女というのは、なぜか魅力的である。
いや、いや、この表現は定義においてまちがっている。魅力的だから悪女なのである。ただ単にわるいだけの女なら、悪女ではない。わるい女であるにもかかわらず、それを一瞬帳消しにしてしまうどの魅力を持っている。それが悪女なのだから。
そして、さなきだに女性の登場の少ない旧約聖書である。たまに登場しても美女かどうか、肝心なことはあまりつまびらかに書いていない。
その点、デリラは、サムソンがあれだけ迷ったのだから、きっと美しかったにちがいない。私が保証する。