じじぃの「歴史・思想_315_ユダヤ人の歴史・ダビデの王国」

David’s Kingdom in the Near East

イスラエル王国

ヨシュアの死後、デボラ、ギデオン、サムソンといった指導者がユダヤ人を統率した。彼らは士師と呼ばれ、軍事的指導者であり預言者でもあった。彼らの活躍を描いたのが士師記で、サムソン(Samson)の話しが有名である。
怪力の持ち主サムソンに手を焼いたペリシテ人は美貌の女性デリラを送り込む。デリラはサムソンに近づき強さの秘密が髪にあることを探り出す。デリラに髪を切られて力を失くしたサムソンは、ペリシテ人に目をえぐられて奴隷となり神殿に囚われる。しかし、徐々に髪が伸びてきて怪力が復活し、神殿の柱を倒して多くのペリシテ人を殺し自らも命を落とした。
最後の士師サムエルは部族を統合してイスラエル王国を建国、サウル(Saul)を初代の王に指名した。サウルはペリシテ人の巨人ゴリアテ(Golyat)との戦いに苦しむが、羊飼いの少年ダビデゴリアテの額に石を命中させて倒した。ダビデの人気は高まり、嫉妬したサウルは暗殺を企む。危険を感じたダビデイスラエルを脱出し、サウルがペリシテ人との戦いで戦死すると国に戻った。
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b01_create/israel.html

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ダビデの成功 より

さてサウルの雇兵として採用した一人が、ダビデである。強く勇気ある者を兵として雇うのは、彼の方針であった。「サウルは力の強い者や勇敢な者を見るごとに、これを召しかかえた」(サムエル記上14章52節)。しかし現存する聖書の記述には、ダビデの軍事的経歴に関し、2つ別々の伝承が混在している。彼はもともと、控えめで魅力あふれるモアブの女ルツを祖先とする羊飼いであった。最初に召しかかえられたとき、彼は戦いについて何も知らなかった。刀と鎧(よろい)を身につけ、「歩こうとしたがだめだった。慣れていなかったからである」(サムエル記上17章39節)。
そこでもっと原始的な武器、すなわち投石器を用いてペリシテ人の強者ゴリアテを殺し、最初の大きな手柄をたてる。しかしまた別の説話によれば、ダビデがサウルの注目を浴びたのは、彼が「(楽器を)かなでるのがうまく、強くて勇敢な男、いくさ人で、賢明、姿が美しい」であったからである(サムエル記上16章18節)。
ダビデは少年、青年時代にサウルに仕えたものの、彼の職業軍人としての訓練はむしろペリシテ人の雇兵として受けたというのが、本当のところであるらしい。ダビデは当時の新兵器であった鉄製武器の使い方を含め、ペリシテ人の戦い方を身につけた。その活躍があまりにも目覚まかったため、ガトの王アキシュが彼に封土を与え家来にしたほどである。ダビデが完全にペリシテ人の陣営に帰属する可能性さえあったが、最後には結局ユダの王位を選択する。ペリシテ軍の司令官として、また失策続くのサウルと対立する者たちの指導者として、ダビデは自分のまわりによく訓練された騎士や兵士の一団を集める。彼らはダビデに忠誠を誓い、個人的な愛着を抱き、褒美として土地を分け与えてもらうのを期待した。
サウルの死後ダビデがユダの王になれたのは、彼らの軍事力があればこそであった。その後北の王国イスラエルが分裂し、その地におけるサウルの後継者イシュバアルが殺されるのをじっと待った。この時点でイスラエルの長老たちは、契約を結んで北の王位を授与しようと申し出る。少なくともその初期に、ダビデの王国が統一国家ではなく、彼と個人的に別々の契約を結んだ2つの国家であったのは、重要な点である。ダビデイスラエルに現れたあまたの王のうちで、最も成功した人気の高い王であった。王として統治者として原型ともいうべき人物であったため、その死後2000年以上にわたり、ユダヤ人はダビデの治世を黄金時代と見なし続けた。しかし現実には、彼の統治はいつも不安定であった。彼にとって最も頼りになるのはイスラエル人勢力ではなく、身辺の護衛にあたる外国人雇兵、クレタ人とペレティ人だった。

祭司王ダビデ より

それでもなお、ダビデは偉大な王であった。3つ理由がある。まず王の役割と祭司の役割を、サウルには思いもよらなかった形で1つにしたこと。サムエルには直接の後継者がいなかったが。、その精神的権威のかなりの部分はダビデによって引き継がれた。ダビデは決して聖人君子ではなかったものの、どうやら深い信仰心の持ち主であったらしい。息子であり世継ぎであるソロモンと同様、豊かな芸術的想像力を有するなど、多くの才能に恵まれていた。ダビデが音楽家であり詩人であり、聖歌の作り手であったという伝承は非常に有力で、一概に否定しきれない。聖書によれば、彼は儀式的な舞踊に加わり、舞を舞った。王政はそもそも冷酷な軍事的必要性に迫られて誕生したのだが、それに宗教的権威、オリエントの壮麗、新しい水準に達した文化をつけ加え、1つにまとめ、輝かしい制度へ巧みに変換したように見受けられる。保守的な地方の首領たちは気に入らなかったかもしれないが、一般大衆は興奮し満足したのである。
第2に、王と祭司と両方の役目を果たすダビデは、神の祝福を得ていたかのようである。ダビデの純粋に軍事的な功績には、ならぶべきものがない。彼はペリシテ人を完璧に撃破し、海岸沿いの狭い地域へ押し込めてしまった。サウルはイスラエル人の定住地内に残っていたカナン人の飛び地を狭めるのに功績があったけれど、この過程を完成させたのはダビデである。
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ダビデヤハウェ宗教が何たるかを理解していた。自分自身を宗教的人間と考え、預言者兼祭司という政治家以外のもう1つの役割を有し、しばしば音楽、著作、そして舞踊を通じて、その役割を果たした。ダビデ世襲の王政を樹立しながら長子相続性を認めなかったのは、意義が深い。彼の後を継ぐ可能性のあった上の息子3人、すなわちアブサロム、アムノン、アドニヤは、すべて彼と袂(たもと)をわかち、非業の死を遂げる。晩年になってようやく、ダビデは後継者を示した。彼が選んだ息子はソロモンである。活動的な軍人ではなく、モーセの伝統を受け継ぐ学者であり裁き司であった。息子たちの中で、王政にともなう宗教的義務をこなせるのはソロモンただ一人であり、イスラエルの政治形態に均衡を保つにはその能力が欠かせないと、ダビデは感じたようである。
もう1つ重要な点がある。ダビデは神の箱をエルサレムに移し、新しい首都に宗教的意義を加えたが、王位と王統とに密接にかかわる神の箱を収める壮麗な神殿は、ついに建立しなかった。神の箱はもともと神との契約そのものを収めた、ささやかな祭具である。イスラエル人は、この祭具に深い愛着を抱いていた。祖先の卑賎(ひせん)な出目を思い起こさせ、彼らの神政信仰が有する本来の正統性と純粋さとをあわせて表しているからである。
ダビデが神の箱を収める神殿を建造しなかった事実を、聖書の記述は後になって正当化している。ダビデが何よりも「血の人」であり戦士であったがゆえに、神が許さなかったというのである。