じじぃの「神話伝説_63_ダビデ(古代イスラエルの王)」

ダビデ王の墓 エルサレム 1997.mpg 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=757ezwt_SeE
ダビデゴリアテ

ダビデ ウィキペディアWikipedia)より
ダビデは、古代イスラエルの王(在位:前1000年 - 前961年頃)。ダヴィデ、ダヴィドとも。
羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に着くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となった。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者とされてきた。イスラム教においても預言者の1人に位置づけられている。英語の男性名デイヴィッド(David)などは彼の名に由来する。
息子ソロモンはイスラエルの3代目の王。
ゴリアテ ウィキペディアWikipedia)より
ゴリアテ(Golyat)は、旧約聖書の「サムエル記」に登場するペリシテ人の巨人兵士。
サウル王治下のイスラエル王国の兵士と対峙し、彼らの神を嘲ったが、羊飼いの少年であったダビデが投石器から放った石を額に受けて昏倒し、自らの剣で首を刎ねられ絶命した。この故事にちなんで、弱小な者が強大な者を打ち負かす喩えとしてよく使われる。

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『光あるうちに』 三浦綾子/著 新潮社 1982年発行
罪とは何かより
昔、ダビデという王がいた。そこにナタンという預言者が来て言った。
<ある町に、2人の人がいます。1人は大そう金持で、1人はそれはそれは貧しいのです。金持は非常に沢山の羊と牛を飼っているのですが、貧しい人は、1頭の雌しか持っていませんでした。
 王さま、この子羊を貧しい男は、大事に大事に育てました。男は自分の子供のようにかわいがって、ふところに入れて寝ていたのです。ところが、1人の旅人が、ある時、金持の家に参りました。
 ところがですね。王さま、この金持はその旅人に自分のものを食べさせるのが惜しくて、その貧しい男の大事な子羊をとってきて、料理して旅人にもてなしたのです>
この話を聞いたダビデ王は、その金持のしたことを、大変な権幕で怒った。
<神は生きておられるのだ。そんな非情なことをした奴は死刑だ。そして、その貧しい男に羊を4頭返させるがいい>
その時ナタンは、ダビデ王をきっとにらんで言った。
<王よ、あなたが、その死刑になるべき金持です!>
言われて、ダビデ王はがくぜんとした。
というのは、ダビデは重大な罪を犯していたからである。
ある日の夕ぐれ、ひる寝からさめたダビデは、王宮の屋上に立った。と、屋上から一軒の家の庭が見えた。その庭で、1人の女が体を洗っていた。非情に美しい女だった。一体どこの女かと、早速家来に調べさせたところ、部下のウリヤの妻バテシバであった。誰の妻でもかまわない。ダビデ王は、使者にその女を連れて来させた。そしてダビデは、バテシバと床を1つにしたのである。
女をすぐに家に帰したが、その彼女から、
「あなたの子供を宿しました」
ダビデに告げて来た。
ダビデは困惑した。ユダヤのおきてでは、姦通した者は石で殺されなければならない。ところが、バテシバの夫ウリヤは、戦争に出ていて、妻とは離れていた。ダビデは早速ウリヤを戦線から呼び戻した。そしてウリヤの労をねぎらい、たくさんの贈り物をし、家でゆっくり休めとすすめた。
しかし、ウリヤは忠実な家来だった。美しい妻のもとには帰らず、他の同僚と共に王宮に泊まった。自分の隊長も、その家来たちも、今戦地にいるのに、自分だけが家に帰って楽しい思いをすることはできないというのである。翌日、ダビデはウリヤに酒を飲ませたが、やはりウリヤは妻のもとには帰らなかった。
ダビデの計画は破れた。今ウリヤが妻と寝てさえくれれば、バテシバの子はウリヤの子と言える。しかしウリヤの忠実は、はからずもダビデの思いをくつがえした。
ダビデは更に一計をたくらみ、ウリヤの隊長に手紙を書き送ることにした。ウリヤを激戦の真っ只中に置き去りにし、彼を戦死させよという手紙である。その手紙を、事もあろうにウリヤの手に託して隊長ヨアブに送らせた。忠臣ウリヤは、何も知らずその手紙を命ぜられるままに隊長に届けた。
ウリヤは奸計(かんけい)によって戦死した。ダビデはウリヤの妻バテシバを何人目かの妻に加えて王宮に迎えた。そしてバテシバは子を生んだ。
神はこのダビデを怒り、預言者ナタンをダビデ王に遣わしたのである。ナタンが語った大金持はすなわちダビデであり、貧しき男はウリヤであった。だが、ダビデは他人のこととして聞き、その金持を怒り、貧しい男に同情し、金持を死刑にすべきだとさえ言った。
「あなたがその金持である」
と指摘されて、ダビデは神を恐れてふるえあがった。
「わたしは罪を犯しました」
ダビデはひざまずいて、真剣に悔い改めた。
このダビデと、わたしたちは似た者なのである。部下の妻を盗み、その部下を故意に戦死させたことは、それほどの罪と思わず、大金持が、貧しい男の子羊を奪ったことを、死刑に値するとまで怒る。これがわたしたち人間の罪に対する感覚なのであろう。それでもダビデは、預言者に直言されてふるえあがった。そこはまだ偉いと言える。神を恐れず、人を人とも思わぬ権力者なら、古今を問わず、このナタンのごとき人物など、抹殺して憚(はばか)らぬであろう。
聖書にはこのように、王であれ、誰であれ、その罪の姿は容赦なく書きしるされている。神聖にして犯すべからざる人間など、聖書には1人もいない。
このダビデは、これでもユダヤでは名君で、国民に愛された王なのだ。いかに敬愛された王ではあったとしても、その罪は明らかに書き残されているのである。