じじぃの「歴史・思想_316_ユダヤ人の歴史・ダビデの息子ソロモン」

Masonic Education #30 Solomon's Temple

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pqlNJR6rKJo

The Temple of Solomon (Hekhal Shlomo)

The Temple of Solomon (Hekhal Shlomo)

King Solomon is credited with having built the first temple dedicated to YHWH in Jerusalem. No archaeological remains of this building have been found and all depictions are conjectural.
http://www.bu.edu/mzank/Jerusalem/p/period2-1-2.htm

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ソロモンの絶対君主制 より

ダビデの後継者ソロモンは、父親とはまったく違うタイプの人間であった。ダビデが情熱的で向こう見ず、わがまま、あやまちを犯しては悔い改め、自分の罪深さを意識し、究極的には純粋な心の持ち主であり、神を畏(おそ)れる人物であったのに対し、ソロモンは世俗的な人間であった。ダビデの創作ということになっている聖書の詩編は基本的にその調子も内容も宗教的である。ヤハウェ宗教の核心に近い。これに対し、ソロモンと結びつけて考えられる聖書の箴言(しんげん)や官能的な雅歌(がか)は、みごとな出来栄えではあるものの、むしろ同時代の古代オリエントの著作に類似する内容をもっている。これらの作品には、古代イスラムユダヤの超絶主義的で神を信じる気持ちが欠ける。
結局ソロモンは、非常にすぐれた才覚を有したオリエントの王となったのである。しかし彼の知恵ある者としての名声は、好んで冷酷な君主たらんとしたことによるものであった。父親の晩年、共同統治者に選ばれたものの、ダビデが死んで唯一の支配者となると同時に、ソロモンは先王の側近であった大臣たちを、ときには殺害してまで全員排除する。それによって体制の変革と方向の変革と方向の転換を図ったのである。
軍事政策においても、重大な方針の変化があった。サムエル記下は、ダビデに対するアブサロムの反乱を描写するにあたって、アブサロムを支持した「イスラエルの人々」と、ダビデを守護した「ダビデの家臣」を区別している。「イスラエルの人々」は古来の徴兵制度による部族軍であり、「ダビデの家臣」は雇兵だった。ソロモンの王位継承を確実にし、彼の統治が始めるやいなや反対者の除去を可能としたのも、この「家臣」たちであった。ダビデはそれでも雇兵からなる軍隊を組織する過程で「ユダの人々」、つまり南部から徴兵された部族軍を主要部隊の中枢に据えた。しかし北の諸部族から徴兵された「イスラエルの人々」は、王政に対し中立を保つか、または反抗的態度をとった。そこでソロモンは、この兵役制度をことごとく廃止することに決めた。
その代わりにソロモンは強制労役の制度を導入し、カナン人の住む地域と王国の北部にそれを適用する。ただし、南のユダは免除された。

エルサレム神殿の建設 より

その大きさといい、壮麗さといい、比べるべきもののない立派なソロモンの神殿は、まわりを城壁で囲まれた王宮のある上の町、すなわち城砦(アクロポリス)に堂々と建っていた。けれどもこの神殿と、モーセが荒野からもたらした純粋なヤハウェの宗教との間に、ほとんど何も関係がなかったのは明らかである。後にユダヤ人は、ソロモンの神殿を初期の信仰に欠かせない要素とみなすようになる。しかし王の側近ではなかった信仰心の篤(あつ)い同時代人の目には、そうは見えなかったはずである。強制労働、徴税のための行政区、戦車などと同様、神殿はなじみがなく、地中海沿岸やナイル川流域で栄えた異教徒のより進んだ文化を、単に摸倣したものにすぎなかった。ソロモンは外国人妻や中央集権的王朝、そして各部族に対する過酷な徴税とともに、異教を受け入れたのではなかったか。ソロモンの神殿は偶像を崇める場所であったのだろうか。
契約の箱(神の箱)そのものが、この壮麗な場所ではひどく場違いに見えたに違いない。それは長さ4フィート、深さ2フィート6インチの木でできたただの箱で、両側の環にさおを2本通してかついだ。中には十戒を刻んだ石の板が保存されていた。イスラエル人の厳密な信仰に従えば、契約の箱は単に神の戒めを納める容器にすいない。それ自身、礼拝の対象ではなかったのである。しかしこの点については、イスラエル人の間に混乱があった。神の姿が表現しえないにもかかわらず、神は人を自らのかたちに創造したという信仰について混乱があったのと同じである。ダンの地にあった古い原始的な神殿の1つには、神像が実際に置かれていたという。
契約の十戒の石版を運ぶために造られたものであったが、イスラエル人は神の言葉には神聖な力が宿っていると考えたようである。したがってある意味で、契約の箱には神そのものが宿っていると信じた。彼らは荒野をさまよった時代の日々を思い出して、こう記した。「箱が進むときモーセは言った、『主よ、立ち上がってください。なんじの敵は散らされ、なんじを憎む者は御前から逃げ去りますように』。箱がとどまるときはこう言った。『主よ、帰ってきてください。イスラエルの幾千幾万の民のもとに』」(民数記10章35-36節)。
ソロモンは、自分に都合のよいように、この混同を利用した。すなわち宗教改革絶対王政の方向に向けて推進し、神への礼拝を捧げうる唯一の聖所を王の支配下に置いたのである。列王記上8章で、ソロモンは神が神殿に臨在することを強調する。「わたしはあなたのために住むべき家、とこしえの住まいを建てました」(列王記上8章13節)。
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ソロモンが推進した宗教改革に対するこの反感と、彼の容赦ない統治のしかたや過酷な徴税が重なって、父親が築いた統一王国を長期にわたって維持することは結局不可能となる。ソロモンの巧妙さと栄光が何とか王国を持ちこたえさせたものの、治世最後の日々には、すでに体制がほころびはじめる兆候があった。過去の事件をまるで昨日起きたかのように感じるイスラエル人にとって、ソロモンのが導入した強制労働の制度は、エジプトの苦役を思い起こさせるため、特に不快であった。