じじぃの「人の生きざま_438_坂上・二郎」

コント55号  野鳥の会 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=X7zkNnaDRYE
コント55号のなんでそうなるの?】道案内 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kMlCMkg1M-8
坂上二郎さん、脳梗塞で死去 76歳 動画 Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/xhia3q_%E5%9D%82%E4%B8%8A%E4%BA%8C%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93-%E8%84%B3%E6%A2%97%E5%A1%9E%E3%81%A7%E6%AD%BB%E5%8E%BB-76%E6%AD%B3_news
坂上二郎 「飛びます 飛びます」

坂上二郎が最期まで明かさなかったコント55号の秘密 2011年03月11日 All About
2人のコントには、たたき台としての台本はあっても、一言一句が克明に記されたものはありませんでした。すべては欽ちゃんの頭の中にあるツッコミ台詞に対し、うろたえながら二郎さんもアドリブで返すというパターン。なので、全く同じコントは“演じられない”のです。
こうして膨大なコントを残してきた55号ですが、そのパターンは愚直なまでにシンプルでした。一般市民である坂上二郎のもとに、どこか異常な性格を帯びた萩本欽一が現れ、徹底的に翻弄するというもの。しかし、このコント群には彼ら2人でなければ成立させられない、大きな“秘密”が隠されていました。
http://allabout.co.jp/gm/gc/377529/
坂上二郎 ウィキペディアWikipedia)より
坂上 二郎(さかがみ じろう、1934年4月16日 - 2011年3月10日)、は、日本のコメディアン、俳優、歌手。鹿児島県鹿児島市出身。浅井企画所属。通称「二郎さん」。
コント55号
キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年、萩本と再会し、お笑いコンビ「コント55号」を結成する。初めは歌手を目指したがさっぱり売れず、諦めかけて大型免許を取って転職しようとした矢先、たまたま麻雀のメンバーが足りず萩本に電話をかけたのが55号に繋がった。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場などで人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。
また、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』では下ネタを嫌う萩本に対し、率先して汚れ役を引き受け、アイドル歌手やグラビアタレント相手に野球拳を行った。

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週刊現代 2014年盛夏 特大合併合
コント55号のなんでそうなるの? 一発勝負で挑んだ伝説のコント番組 (一部抜粋しています)
'60年代から'70年代にかけて、日本のコントは「コント55号」と「ドリフターズ」が人気を二分した。テレビの前でワクワクしながら、両方を楽しんでいた人も多いだろう。後にドリフターズに加入する志村けんもそんな一人だった。コント55号と、ドリフターズのどちらに弟子入りするかかなり悩んだという。音楽が好きだったこともあり志村はドリフを選ぶが、それほどに当時この二組の人気は凄まじかった。
だが、萩本欽一はドリフのことを「戦友」と語るように、当の本人たちはお互いをライバルだとは思っていなかった。芸人の地位がまだ低かった時代、ミュージシャン出身のドリフと敵対しては、コントという文化自体が衰退してしまうという危機意識があったのかもしれない。萩本と坂上二郎は「ライバルは?」と聞かれると、常に萩本は坂上の名を挙げ、坂本は萩本の名を挙げた。
ところが、'70年に入り、コント55号の人気は陰りを見せ始める。冠番組の視聴率は低迷。そこで'73年開始の『コント55号のなんでそうなるの?』で二人は原点に立ち返る決意をした。収録を松竹演芸場で行ったのである。お客さんを入れての公開収録、撮って出しの状態でオンエアする。非常にシンプルな内容だったが、このシンプルさが番組人気に火をつけた。
コント55号はおなじネタを二度とやらない。テレビ番組は収録であるにもかかわらず、劇場と同じく毎回新ネタで一発勝負した。失敗は許されない――萩本はあえて撮り直しが利かない状態でコントをやることで、その時にお客さんの反応、「熱気」を画面に収めようとしていたのだ。