じじぃの「人の死にざま_656_田宮・二郎」

田宮二郎 - あのひと検索 SPYSEE
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田宮二郎 動画 YouTube
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田宮二郎 動画 YouTube
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田宮二郎 ウィキペディアWikipedia) より
田宮 二郎は、1960年代から1970年代にかけて活躍した日本の俳優・司会者。本名は柴田吾郎(しばたごろう)。
妻は元女優の藤由紀子。藤とは『黒の爆走』『黒の超特急』などで共演したのをきっかけに1965年に結婚、二男をもうける。長男は俳優・テレビレポーターの柴田光太郎。次男は俳優の田宮五郎。元俳優の南川直は従兄。
代表作は、映画「悪名シリーズ」・『白い巨塔』、テレビドラマ『白い巨塔』、クイズ番組『クイズタイムショック』など。
【生涯・来歴】
大阪府大阪市北区出身。生後4日で住友財閥の大番頭だった父を失い、戦後まもなく母とも死別。そのため幼少から高校時代にかけては京都にて親族に育てられる。京都府立鴨沂高等学校、学習院大学政経学部経済学科卒。
1957年に本名の「柴田吾郎」でデビュー。1959年、大映永田雅一社長がオーナーを兼務する大毎オリオンズの強打者・田宮謙次郎にあやかりたいという永田の意思に強制される形で「田宮二郎」と改名。長らく端役が多かったが、1961年に『女の勲章』(吉村公三郎監督、山崎豊子原作)の演技で注目を集めた。同年秋に勝新太郎と共演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作)にて勝の相棒「モートルの貞」役に抜擢され好評を得、人気スターの仲間入りを果たす。「モートルの貞」は『続悪名』(田中徳三監督、今東光原作)で絶命するが、その後シリーズ化が決定、田宮は3作目から貞の弟「清次」を演じ「勝−田宮」コンビが復活、長きにわたる人気シリーズとなった。またこれらの演技が評価され、1961年のエランドール新人賞を獲得した。
1969年1月9日からは、NET(現・テレビ朝日)系列で放送が始まったクイズ番組『クイズタイムショック』の初代司会を務め、映画でのクールな雰囲気から一転したソフトなキャラクター、加えて軽快で巧みな話術ときわめて的確な番組進行が視聴者の好感を呼んだ。また同年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の音楽番組『田宮二郎ショー』の司会も務めた。
1977年冬、TBSより田宮のキャスティング権を得たフジテレビから企画を求められた田宮は、原作の途中までしか映画化されていなかった小説『白い巨塔』のドラマ化を強く希望した。映画『白い巨塔』で主演として財前五郎を演じて以来、田宮は常に高みを目指す財前の姿に自分を重ね、自身の本名と同じ「ごろう」であったこともあり、財前五郎を演じるのは自分しかいない、原作のラスト・財前の死までを演じ切りたいと思い続けていた。1977年12月に入ると、躁状態に入った田宮はあれほど入れ込んでいたドラマ化への関心が薄れ、いかがわしいビジネスに熱中し始め、多額の債務を抱えてしまう。妻は弁護士と協議の上、偽装離婚することにより財産を守ったほどである。田宮の事業熱が収まらないまま、ドラマ『白い巨塔』は1978年3月26日に撮影開始。ロケーション現場の病院を自ら手配するなど、高いテンションで撮影に臨み、6月3日には第1話の放送が視聴率18.6%と好調にスタートした。
ドラマ『白い巨塔』の放映が残り2話となっていた1978年12月28日昼過ぎ、家族と別居して1人で住んでいた港区元麻布の自宅で起床した田宮は付き人に仕出し弁当を取りに行かせた後に猟銃自殺を遂げた。43歳没。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
田宮二郎(たみやじろう) (1935-1978) 43歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和53年12月28日、俳優の田宮二郎は、当時夫人と2人の子供は青山のマンションに別居していたので、午前11ごろ、港区元麻布の自邸で、付き人の西村豊に弁当をとってくれと頼み、西村が赤坂の仕出し屋から弁当を買って来て、午後1時半ごろ2階に上がってゆくと、10帖の寝室のダブル・ベットの中で、赤いパジャマを着た田宮は死んでおり、銃身の先が、胸までかかった毛布からのぞいて見えた。
田宮は、趣味のクレー射撃に使うアメリカ製散弾銃をベッドの中にいれ、足の指で引き金をひいたものらしく、弾は心臓部に直径ほぼ3センチの穴をあけ、即死の状態であった。ベッドの中と右腕は血まみれになっていた。
彼は身長180センチ、空手は初段で、英会話も自在で、映画『白い巨塔』などでもその演技は好評を受けていたが日本のハワード・ヒューズを志して、俳優以外にも映画製作、開発事業など種々事業に手を出し、それがうまくいっていないといわれ、前年の3月ごろから強度の躁鬱(そううつ)病にかかり、しばしば誇大妄想的な異常な言動があった。
最後の出演作品はフジテレビのやはり『白い巨塔』であったが、再終録画は11月15日に行われ、彼は自分の死ぬシーンを、「うまく死ねた」と自賛していたという。このシーンは、田宮の死後9日目の翌1月6日に放映された。
生前つきあいのあった代議士佐藤文生は、毎年田宮邸で行われるクリスマス・パーティについて電話すると、田宮は「ことしはやめます。とても出来る状態ではありません」と涙声で答え、佐藤が何をいっても「どうしてもだめなんです」といったという。
妻幸子に残された遺書。
「・・・・12月1日の夜、青山のマンションから、僕が麻布に戻る時、『ひとり置いてゆかないで!』と幸子はいった。
 涙をふき乍ら、そう云った幸子の顔はいままでに見せたこともないものだった。『もちろんさ!』と僕は答えた。しかし心の中を見すかされた僕は、あなたの左手をぎゅっと握ることしかできなかった。
 もう自分でもとめることができないところへ来てしまった。
 生きることって苦しいことだね。死を覚悟するのはとても怖いことだよ。
 43歳まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上のしあわせはないと自分でも思う・
 田宮二郎という俳優が少しでも作品の主人公を演じられたことが、僕にとって不思議なことなのだ。そうは思わないか?
 病で倒れたと思ってほしい。事実、病なのかも知れない。そう思って、諦めてほしい」
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田宮には躁鬱病的気質があって、数年前から躁状態のときに無計算の事業欲に熱中し、それが鬱状態にはいって虚脱的心理におちいり、自殺したものと見られる。
彼は自殺10ヵ月前に3億円の生命保険にはいっており、生命保険は1年以内に自殺した場合、保険金は支払われないという規約があるが、彼のケースは鬱病という病気と認められて、保険金が支払われた。

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