じじぃの「人の死にざま_1394_近藤・重蔵」

探訪 閉ざされた日本一の島 北方領土択捉島 動画 YouTube
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近藤重蔵

近藤重蔵 ウィキペディアWikipedia)より
近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。
諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。
明和8年(1771年)、御先手組与力・近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、60余種1500余巻の著作を残している。

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『当てはずれの面々―江戸から明治へ』 杉浦明平/著 岩波書店 1998年発行
近藤重蔵―千島探検と「大日本恵登呂府」 (一部抜粋しています)
徳川幕府鎖国を最重要の国策として、きびしく外国との交わりを禁圧してから百数十年、無事に過ごしてきたが、9代将軍・10代将軍のころともなれば、こちらはじっとしていても、外国のほうがすすんでわが国の門をたたきはじめる。とくにロシア帝国は侵略的で、シベリア大陸を横断してカムチャッカ半島に根拠地をおくと、ラッコを追って南下を開始、明和3年(1766)には早くもウルップ島に上陸し、千島列島の調査もすすめられる。
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25歳のエネルギーにあふれる重蔵は、蝦夷でなんでも見てやろう、なんでも知ってやろうと好奇心と冒険心でいっぱいだった。新道開発が一段落すると、11月(旧暦)という極寒にもかかわらず、ムカワ(鵡川)川をさかのぼること約10日、ムカワノキロノイ山に登った。が、そのころは万物みな凍っていて、山の中も川の上も雪と氷となっているのを踏み越えた。大川はことごとく凍っているので、歩いて渡ることができて便利だった。山中の大木も寒気のために立ったまま凍って割れた。夜中に目をさますと、夜着のえりが寝息で霜のように凍り、いろりのそばにおいてある茶碗の中に飲み残した酒も明け方には凍っていた。風でも出ると、髪も鬚もまつげもことごとく凍って、霜が降りたようになってしまった。そういう峻酷な自然によく耐えてアイヌの案内で数十日かかって、12月27日にはエトモ(絵鞆)に出、翌寛政11年(1799)正月にウスに移った。
ここで雪解けを待って、エトロフからチリポイ・占守島まで渡航してロシア人との接触談判を構想していたところ、江戸より帰府の命令が到着したので、早々に風雪の中を江戸に帰還した。
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重蔵は半年余りサマニで練り上げたプランに拠って、漁場17ヵ所をひらき、現地民に食糧・漁網・漁具を分配して、漁業のしかたを教えた。
さらに風俗の日本化につとめ、髪を結い、名を何右衛門と改めさせ、乙名(酋長)を名主、一般現地民を村方とよぶことに決め、エトロフ全島に郷村制をはじめることにして、7郷25村に分かった。
当時の調査によれば、エトロフ島は周囲260里(約1040キロ)で、戸数190軒、現地人1118人、アイヌ舟63艘となっているが、北海道本島との交渉もまれで、
「乙名がやっと熊・オットセイあるいは犬の皮を着ているだけで、他のものは鳥の羽をまたはキナ草をつづりあつめて着ている。裸のものもある。15、6歳以下の子どもは極寒のときでもほとんど裸に近い。家といっても小さなもので穴居同様、日常道具などはほとんどない」
と重蔵は報告している。
エトロフ島は先にロシア人がしばらく住んでいて、十字架が立っていたが、重蔵はこれを倒して、別にエトロフ島のカムイワツカオイ山に「天長地久大日本国」の木標を立て、
「エトロフ島の開発は、北条時代に八丈島をひらいてからこのかた、一度もなかった快挙である」
とみずから誇った。