じじぃの「人の死にざま_834_大黒屋・光」

大黒屋光太夫 - あのひと検索 SPYSEE
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おろしや国酔夢譚 予告 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=E4WavakNsbg
Russian Palaces 2 Tsarskoye Selo 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dJwqC31rPhk&feature=related
大黒屋光太夫記念館
http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/kodayu/
大黒屋光太夫 ウィキペディアWikipedia)より
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。
天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周大槻玄沢蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。
北槎聞略 ウィキペディアWikipedia)より
北槎聞略は、桂川甫周が大黒屋光太夫らから聴取した内容などをもとに著した地誌。寛政6年(1794年)成立。本文11巻・付録1巻・衣類器什図等2軸・地図10葉から成る。
【内容】
天明2年(1782年)12月、駿河沖で遭難した伊勢国の神昌丸乗組員17名が、約8ヵ月の漂流の末、船内で死亡した1名を除く16名が当時ロシア帝国の属領となっていたアリューシャン列島のアムチトカ島(アミシヤツカと表記)に漂着、厳しい冬で仲間を次々と失いながらも4年後に現地のロシア人たちと協力してカムチャツカ(カムシヤツカ)、オホーツク(ヲホツカ)、ヤクーツク(ヤコツカ)を経由し、寛政元年(1789年)イルクーツク(イルコツカ)に到着。船頭光太夫は日本帰国の許しを得るため、キリル・ラクスマンラックスマンと表記)の協力を得て当時のロシア女帝エカチェリーナ2世に拝謁、9ヵ月のペテルブルク滞在後、帰化した2名や死者を除いた3名が遣日使節アダム・ラクスマンと共に帰国の途に着き、寛政4年(1792年)9月根室に到着する。光太夫と磯吉の2名は江戸に渡り、翌1793年9月18日、吹上御苑にて将軍に拝謁、ロシアから持ち帰った品を献上する。
幕府の医官蘭学者桂川甫周は、光太夫と磯吉に諮問し、その答えとドイツ人のヨハン・ヒューブナーによって記された世界地理書のオランダ語訳である「Algemeen Geographie」(ゼヲガラヒと表記)のロシアについての記述などを参照しながら、その見聞体験を収録した。記載内容の中には孤児院(幼院)に赤ちゃんポストが備えられている様子や、ペテルブルクの高級な遊郭(娼家)で客である光太夫が娼婦らから逆に金品を贈られる様子など、興味深い記述も多い。
収録内容には光太夫らの記憶違い等に起因する明らかな間違いや、シベリア・カムチャッカ方言を標準ロシア語のように記述している例も僅かにあるものの、学者でもない光太夫らがロシアで収録・記憶した事項の精細さは驚くほどである。

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『日本史深訪 第7集』 海音寺潮五郎/著 角川書店 1973年発行
大黒屋光太夫 【執筆】井上靖 (一部抜粋しています)
≪東京北の丸国立弘文書館の一隅に、漂流民に関する膨大なドキュメントが所蔵されている。
四面海にめぐらされている日本の歴史は、無数の漂流民を生んだ。彼らの多くは名も知れぬまま、異郷に朽ち果てている。ここに所蔵されている記録は、彼らのうち、再び故国に帰ることができた、ごく一部の漂流民に関する史料である。
中でも最大の圧巻と言われるのが、伊勢白子の船頭、大黒屋光太夫一行の、10年にわたるロシア漂流の記録『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』である。≫
井上 『北槎聞略』という本は、光太夫が10年の長い漂流生活から帰ってきまして、将軍家の前で申し開きをする、それを当時の知識人の第一人者、最高の世界通である桂川甫周(かつらがわほしゅう)がノートしたものです。だから、そのころとしては、最も正確度の高い、海外情報のわけであります。
ところが当時は鎖国時代ですから、それは隠されてしまって世に出なかった。それを亀井高孝先生が、若い時に神田の古本屋で偶然見つけられた。先生はご自分で一生漂流民のことをご研究になり、『北槎聞略』をお調べになり、注をつけ、活字本になさってくださった。
私は大黒屋光太夫のことは、実は何も知らなかったのでありますが、この活字本になった『北槎聞略』を読んで、非常に驚いたのであります。なぜなら、これは一人の漂流者の顛末というばかりでなくて、光太夫の10年間の漂流生活をつづり、それがそのまま日本とロシアとの交渉史の、いちばんたいせつな第1ページを形成しているからであります。
私も、単なる漂流民の顛末でしたら、それほど心を動かされなかったと思うのですが、しかしこれを小説の形で書くことで、日露交渉史のたいせつな1ページをつづることになる、こう思いまして、亀井先生をはじめ、日露交渉史に関係ある先生がたにお会いしたり、その書物を読んだりして、『おろしや国酔夢譚(すいむたん)』という題で、彼の10年間の漂流の経緯(いきさつ)を書いたわけであります。
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≪光太夫エカテリーナ2世に拝謁したのは、ペテルブルグ郊外の夏の離宮、ツアルスコエ・セロであった。
この離宮も、第二次大戦中ドイツ軍に占領され、指令部が置かれた。ドイツ軍がレニングラードを撤退する時、徹底的に爆破された宮殿は、現在復元工事が進められている。
 扱も別蟹の王殿は五層に造り、樽はムラムラといふ石を磨て醐成す。下の一層は内臣、侍医の直舎なり。第二層は供膳の所。第三層を座所とす。ペスポロッコ、ウヲロンツヲーフ両人下層に出迎ひ、光太夫を御前に召さるる間こなたへ来るべしとて先に立て、第三層に伴ひ行、キリロも後に続て出る。宮中の結構は方二十間計にて赤と緑と斑文有ムラムラにて飾り、女王の左右には侍女五六十人花を飾りて囲綾す。≫
井上 『北槎聞略』においては、この建物の説明、およびエカテリーナ女帝に会いました部屋についての記述というのは、た小まちがっております。これは、異国の漂流民が、時の権威者である女帝に会う、自分の運命に一番大きい力を持つ女帝に会う、その1日の記述でありますから、これは多少の誤りがあって当然であります。
この離宮は「五階」と書いてありますが、正しくは三階であります。それから、「三階で女帝と会った」と書いてありますが、もちろんこれは二階でありまして、それから会った部屋が、赤と緑のむらむら、斑点(はんてん)になっている大理石の部屋だと書いてあります。これは、大理石の部屋、大理石の建物ではありませんけれども、大理石に見える。私たちにもそう見えますから、当然なことでありますが、あかと緑の部屋は、ほんとうはないのであります。
このツアルスコエ・セロの離宮の入り口は真ん中にありまして、はいって左手に行きますと、何室めかに大広間があります。これは王冠の間でありまして、金でできている。どんな人が行きましても、そこからは金の印象しか得ないと思います。光太夫も、どんなに興奮していても、その部屋にはいったら金の印象を受けたでしょうから、その部屋ではない。
階段を登りまして反対側へ行くと、5つか6つめに中広間があります。これは絵画の部屋であります。エカテリーナ女帝が、お金にあかしてヨーロッパからたくさんの絵画を買ってきた、その絵画の部屋でありまして、赤と緑の印象はここからも受けないのでありますが、しかし、その絵画の部屋へ行きます途中に、いろいろな部屋があります。
部屋から受ける印象は1つずつ違いまして、確かに赤い印象を受ける部屋、緑の印象を受ける部屋の前を通過して行きます。そして中広間の絵画の部屋へ行くことになります。
そういうわけで、エカテリーナに会いまして、「それでは、帰してあげよう」という、たいへん首尾よい言葉をいただいて帰ってくる光太夫は、帰ってきた時には、もう赤も緑藻全部ごちゃごちゃになっていたと思います。こういうところに、まちがいではありますけれども、『北槎聞略』の中にあるこのまちがいというものは、やはり、リアリティを持った、当然なまちがいであるという気がします。
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井上 しかし、悲劇というものは、必ずしもこれだけではなかった。『北槎聞略』に記述はありませんけれども、ロシア特使からの公文書に接した根室松前藩は、急使を江戸に走らせて、幕府にその処置の伺いをたてる。この間小市は、会われ故郷を目前にしながら、根室で病に倒れてしまいます。
そうして、磯吉と光太夫は、江戸へはいりますが、結局、この時の修好使節はその任務を果たせず帰国してしまう。そして2人は、鎖国例違反のかどで、取り調べを受けることになります。その時の記述が『北槎聞略』というこの書物の内容になるわけであります。
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しかし結局、日本とロシアの国交は開かれなかった。そして江戸において彼らを待っていたものは、半幽囚の生活であります。外国のことをよく知っている人たち、外国のいろんなことを知っている人間が2人、今ここに帰ってきた。これを自由にしていろいろのことを話させることはどうかという、そういう考え方が、為政者の中にあったと思います。そして2人とも国へ帰ることができないので、江戸の一隅に、半分座敷牢のような形で幽囚生活をすることを余儀なくされております。光太夫に関する1つの物語の中で、この結末がいちばん大きい悲劇であるかもしれません。

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