じじぃの「芥川賞受賞作品・円城塔・道化師の蝶のあらすじ!文藝春秋3月号」

円城塔(右) 画像
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『道化師の蝶』円城塔著 (追加) 2012.3.11 MSN産経ニュース
■文学を愛する者への贈り物
 世の中には、わかりやすい作家も、むずかしい作家もいる。最新の芥川賞作家・円城塔(えんじょう・とう)の場合、後者のように喧伝(けんでん)されているものの、文学的教養のある読者にとっては、あまりにわかりやすい。
たとえば昨年2011年に発表された本書表題作の第1章は絶妙なツカミの1行「旅の間にしか読めない本があるとよい」で始まるが、同章はその全体が、友幸友幸なる多言語作家が人工言語無活用ラテン語で書き上げた小説『猫の下で読むに限る』の日本語訳。第2章以降では、前章にも登場した肥満体の出版業者A・A・エイブラムスが作家と凄絶(せいぜつ)なイタチごっこを演じ、やがてこの原稿を入手したエイブラムスは機内で亡くなるも、死後には同氏の私設記念館のスタッフが友幸友幸の捜索を続行する。
さてエイブラムスがたえず携えていたのは、人間の着想そのものを蝶(ちょう)のごとくつかまえることのできる捕虫網だ。しかも、同氏は時に道化師と呼ばれるが、じつはエイブラムスにしか見えない蝶の紋様こそは道化師風。タイトル「道化師の蝶」における格助詞「の」の用法自体がトリッキイなのである。はたして末尾の第5章では、当の「わたし」が変転をくりかえして超絶的などんでん返しを演じ、わたしたちは読者自身が捕虫網を携えたもうひとりの道化師であるのを実感する。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120311/bks12031109060006-n1.htm
道化師の蝶 合評
中島京子 最後は円城塔さんの「道化師の蝶」(「群像」七月号)です。
全部で5つのパートに分かれています。第1章で、語り手の「わたし」は、A・A・エイブラムスさんと飛行機の中で会います。銀色の虫取り網で着想を捕まえてはビジネスにしているエイブラムス氏に、「わたし」は旅行中に本が読めないという話をします。エイブラムス氏は「旅の間にしか読めない本があるとよい」という「わたし」の着想を捉え、『飛行機の中で読むに限る』など、一連の『〜で読むに限る』シリーズをヒットさせます。
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/books/topics/doukeshi/gappyou.html
円城塔「道化師の蝶」のあらすじ・感想【第146回(2012)芥川賞 NAVER まとめ
出身/北海道札幌市
妻/田辺青蛙(作家)
職業/作家 兼 ウェブエンジニア
http://matome.naver.jp/odai/2132684696138526701
文藝春秋』 3月号
芥川賞選評 「浮き上がってきた模様」 【選評者】小川洋子 (一部抜粋しています)
『道化師の蝶』に描かれた着想の1つ1つはどれも、”銀線細工の技法”により織られた網で捕獲したもののように、魅惑的だった。使用者のいない言語で書かれた小説。追跡者を死へ誘い込む死語。手芸の技術と並行して進む言葉の習得。こうした小片がつなぎ合わされ、1枚のパッチワークが縫い上がり、さてどんな模様が浮き出してきたかと楽しみに見つめてみれば、そこには模様など何も現れていなかった。それでも粘り強く、目を細めたり首を傾げたりして、猫だろうか蝶だろうかと考えているうち、パッチワークの裏側に何かが隠されているような気分になってくる。パッチワークに限らず刺繍でも編み物でも、手芸作品の裏側というのはぞっとする場合が多いのだがなあ、と思いながら、そろそろと縫い目を押し広げてゆく。
私にとって『道化師の蝶』を読むことは、このような体験だった。もし自分の使っている言葉が、世界中で自分一人にしか通じないとしても、私はやはり小説を書くだろうか。結局、私に見えてきた模様とは、この1つの重大な自問であった。
受賞者インタビュー 「小説製造機械になるのが夢です」 円城塔 (一部抜粋しています)
――ただ一方で、「蝶」というのは、その作者でなければ書けない固有性の象徴で、ロマンチックな存在にも思えます。
円城 まあ、僕の書いた小説は2、3行読んだだけで僕の書いたものとバレるらしいので(笑)、作者の固有性はやっぱりあるんだと思います。 ただ僕は、そういうところを抜けたいと思っているので、不本意でもあるんです。曲がりなりにも職業としてもの書きを名乗っている以上、三島由紀夫にしろ、村上春樹にしろ、「やってみろ」と言われればどんな文体でも書き分けられなければいけないんじゃないか、と思ってしまうんです。
――確かに音楽なら、ビートルズの曲を他のバンドがカバーするといったことはよくあるし、それが上手ければ褒められますが、小説だと贋作と言われてしまいます。
円城 SF的な発想かもしれませんが、あらゆるパターンの小説を書ける、「小説製造機械」があったらどうだろう、なんて考えることもあります。というか、自分がそれになりたい(笑)。もともと言語の根っこにある仕組みに興味があって、研究対象にしていたこともあって、それがストレートに発想に出てしまうんでしょうね。 実際、ハーレクインロマンスではコンピュータで筋書きを組んでいるわけですから、じゃあ、夏目漱石の小説を品詞レベルに分解してみて、コンピュータがもう一度組み立て直したら別の作品ができるんじゃないか、とか夢想しますね。
――「難解」「読者を置き去りにしている」という批判をどう受け止めますか。
円城 当然全然読めないという人もいるでしょうし、それには「すみません」と謝るしかありません。ストーリーや登場人物の心理に没入して読むのが小説のオーソドックスなあり方でしょう。ただあえて言わせてもらえれば、僕だけではなく、エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。エンターテインメントとしては突き合うけれど、結局は嘘じゃん、となってしまう。文系・理系という区別がいいかどうかわかりませんが、世の中の半分ぐらいはそういう人たちがいるのではないでしょうか。彼らに対して、ストーリーだけではなく、もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるばかりが小説の役割ではなくて、普段の生活では考えてもみないことが考えられるようになる、というのも小説の力だと思います。少なくとも、僕にとっては小説を読んでいて一番快感なのはそこなんです。
第146回 芥川賞受賞作 『道化師の蝶』 【著者】円城塔 (一部抜粋しています)
旅の間にしか読めない本があるとよい。
旅の間にも読める本ではつまらない。なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。
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思い出しつつまた同じことを繰り返す。繰り返している記憶はないが、実際に存在している紙の山は圧倒的な現実だ。過去か未來か知らないが、とにかくいつかに書かれたものだ、言葉をまた、最初から書く。その音から。字を覚え、数字を覚え、単語が分かれまとまりとなり、小麦粉が小さなだまとなり、レモン汁が牛乳をほろほろと固め、挽肉がねばり、タマネギがフライパンの上で溶けていく。
布の目を数え、毛糸の目を数え、レース糸の目を数え、頭の中の編み図を、刺し図を布の上に書いていく。
幾何学模様を位相幾何学模様を代数幾何学模様を書いていく。それが何かはわからないまま、模様自体に意味はなく、模様から意味が紡がれていく。糸で、針金で、鉛筆で、ボールペンで、万年筆で、銀筆で、アルファベットを縫い取っていく。裏と表で、同じアルファベットが並ぶように、裏と表で、鏡文字とはならないように。
そうしてそれを文字へと移す。つくりかけの状態を手芸本用に写真へ移す。自分がこうして何をしているのだか、だんだんよくわからなくなる。完成品を仕上げるためではなくて、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。途中で書きやめられた文字、文章、その総体が、わたしのつくり続けているものだから、わたしの仕事は終わらない。終わりようがありはしない。絨毯(じゅうたん)にはじまった刺繍が編み物へ繋がり、レースの縁取りがビーズを受け取り、ビーズは花の形を作り、真鍮(しんちゅう)の針金製の蝶を呼ぶ。なりゆきはどこまでも繋がっていく。形を絶えず変え続け、幼虫と蛹(さなぎ)と成虫とつがいと卵が一連に繋がった生き物のような形態をとり、自分の体へ卵を産んで育み育てる。

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どうでもいい、じじぃの日記。
文藝春秋』 3月号 芥川賞受賞作品 円城塔著『道化師の蝶』を一通り読んだ。
読んでいて不思議な感じがした。随分昔読んだ、芥川賞受賞作品 吉田知子著『無明長夜』の作品と似た感じだった。
「ただあえて言わせてもらえれば、僕だけではなく、エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。エンターテインメントとしては突き合うけれど、結局は嘘じゃん、となってしまう。文系・理系という区別がいいかどうかわかりませんが、世の中の半分ぐらいはそういう人たちがいるのではないでしょうか。彼らに対して、ストーリーだけではなく、もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるばかりが小説の役割ではなくて、普段の生活では考えてもみないことが考えられるようになる、というのも小説の力だと思います」
こういう小説もあっていいような気がする。